チベット牧畜⽂化辞典(パイロット版)Version 1.0.1 (2018-04-12) 主編: 星泉 副編: 海⽼原志穂, ナムタルジャ, 別所裕介 編集: ⼭⼝哲由, 平⽥昌弘, ⼩川⿓之介, 津曲真⼀, 岩⽥啓介, ニャンチャクジャ 顧問: ギャイ・ジャブ, ジュ・カザン Dictionary of Tibetan Pastoralism (Pilot version) Version 1.0.1 (2018-04-12) Editor-in-Chief: Izumi Hoshi Associate Editors: Shiho Ebihara, Nantaijia, Yusuke Bessho Editors: Takayoshi Yamaguchi, Masahiro Hirata, Ryunosuke Ogawa, Shin’ichi Tsumagari, Keisuke Iwata, Nyangchakja Advisors: Gyaye Zhabu, Ju Kalzang ༄༅། །བོད་ཀྱི་འབྲོག་ལས་རིག་གནས་ཚིག་མཛོད། ཚོད་ལྟའི་ཐོན་དང་པོ། Version 1.0.1 (2018-04-12) གཙོ་སྒྲིག་པ།: འཆི་མེད། (星泉) རྩོམ་སྒྲིག་པ་གཞོན་པ།: གཡུ་མཚོ། (海⽼原志穂), རྣམ་ཐར་རྒྱལ།, སྐར་མ་རྒྱ་མཚོ། (別所裕介) རྩོམ་སྒྲིག་པ།: ཡ་མ་ཐར། (⼭⼝哲由), ཤེས་རབ་ཟླ་བ། (平⽥昌弘) , གངས་བུ་དོན་གྲུབ། (⼩川⿓之介) , ཚུ་མ་གྷ་རི་ཞིན་ཡི་ཅི། (津曲 真⼀) , ཡེ་ཤེས་ཟླ་བ། (岩⽥啓介) , སྙིང་ལྕགས་རྒྱལ། བློ་འདྲི་ས།: རྒྱ་ཡེ་བཀྲ་བྷོ། འཇུ་སྐལ་བཟང་། この辞典は、チベットの東北部、アムド地⽅ツェコ県メシュル(⻘海省⻩南蔵族⾃治州沢庫県⻨秀) の牧畜⺠の⾔語・⽂化に基づいて編纂されました。 This dictionary is written and compiled based on the language and culture of Tibetan pastoralists living in Dme-shul area of Rtse-khog, Amdo (Zeku County, Huangnan Tibetan Autonomous Prefecture, Qinghai Province, PR China). ཚིག་མཛོད་འདི་ནི་ཨ་མདོའི་རྨ་ལྷོ་བོད་རིགས་རང་སྐྱོང་ཁུལ་རྩེ་ཁོག་རྫོང་གི་དམེ་ཤུལ་ས་ཁུལ་གྱི་འབྲོག་པའི་ཡུལ་སྐད་དང་འཚོ་བའི་རིག་གནས་ལ་ཞིབ་འཇུག་བྱས་ནས་ བརྩམས་པ་ཡིན། Contact: starlab.ilcaa@gmail.com Website: http://nomadic.aa-ken.jp ThisworkislicensedunderaCreativeCommonsAttribution-NonCommercial4.0InternationalLicense. ⽬次 まえがき................................................................................ ii 謝辞.................................................................................... iv チベット牧畜⺠の現在と私たちが⽬指すもの .............................................. v 調査地概要.............................................................................. ix 調査地俯瞰図............................................................................ xii 凡例.................................................................................... xiii 発⾳表記について........................................................................ xiv カタカナ表記について ................................................................... xvi チベット牧畜⽂化辞典 ................................................................... 1 参考⽂献................................................................................392 参照ウェブサイト........................................................................396 寄稿雑誌記事⼀覧........................................................................397 i まえがき ⻩河や⻑江、メコン河といった⼤河の源流域にあたる草原地帯で⻑いあいだ牧畜⽣活を営んでき たチベットの牧畜⺠は今、急激な変化にさらされている。2000年代から始まった各種移住政策に より、牧畜をやめて町へと移り住む牧畜⺠が急増したのである。牧畜をやめるということは、牧畜 という⽣業とともに形成されてきた⽂化的な基盤が⼤きくゆらぐことを意味する。牧畜⺠にとって みれば、⽣活の拠り所としてきた⽂化を失うに等しい。この状況を⽂化の危機として、チベットの 牧畜⺠の⾔語や⽂化を今こそ記録すべきであると⽴ち上がったのが「チベット牧畜語彙収集プロジ ェクト」(通称)である。 本プロジェクトは、牧畜⺠の⽂化を多⾓的に捉えるため、⾔語学、⽂化⼈類学、宗教⼈類学、牧 野⽣態学、⽣態⼈類学、宗教学、⽂学、歴史学など、さまざまな分野の研究者が集まる学際的な共 同研究として実施してきた。同時に、現地をよく知る牧畜⺠出⾝の研究者と⽇本⼈研究者が協⼒し て調査・研究を⾏う国際的な共同研究でもある。2014年4⽉に東京外国語⼤学アジア・アフリカ ⾔語⽂化研究所(AA研)の共同利⽤・共同研究課題の⼀つとして発⾜し、その後、2015年4⽉か らは科学研究費基盤研究(B)としても採⽤され、2018年3⽉までの4年にわたり、共同研究を実 施してきた。『チベット牧畜⽂化辞典』(パイロット版)は、この共同研究の現時点での成果をとり まとめたものである。 本辞典の基礎資料は、本プロジェクトのメンバーが現地調査で収集してきた牧畜⽂化にかかわる 各種語彙である。調査は本プロジェクト開始当初から、複数のメンバーが共同で現地に赴くという 形で進めた。4年間に⾏った調査の回数は夏期4回、冬期1回である。調査地は、プロジェクトの 中⼼的なメンバーの⼀⼈であるチベット⼈研究者のナムタルジャ⽒の出⾝地である、チベット東北 部、アムド地⽅ツェコ県のメシュルである。この地域を選定したのは、もともと牧畜⺠の暮らす地 域であったが、⼈⼝の8割が町に移住している⼀⽅、まだ牧畜を⾏っている⼈びともいることか ら、牧畜語彙の収集に適していると考えたためである。ナムタルジャ⽒の家族や親戚をはじめとす る、現地の⽅々の多⼤なる協⼒を受けることができ、2018年3⽉までに4,000件に及ぶデータを 収集することができた。そして、このうち3,500件ほどの項⽬を辞典に収録した。 現地調査では、独⾃に作成した調査項⽬のリストを⽤い、調査結果はオリジナルの調査票に⼿書 きで記録するという形で語彙収集を⾏った。2014年10⽉に調査結果を蓄積していくための共同 編集可能なメイン・データベースを構築し、調査のたびにデータ⼊⼒を進めていった。2017年12 ⽉には調査で撮影した全ての写真や辞典⽤に制作したイラストを登録した画像データベースも作成 して、メイン・データベースと関連付けながら編纂作業を進めた。本辞典はこれらのデータベース を⽤いて出⼒したものである。 今回、PDF 版と iOS 版、オンライン版という 3 つの形態の辞典を公開したが、本 PDF 版は XeTeX(ズィーテフ)というUnicode(UTF-8)に対応した組版ソフトを⽤いて制作したものであ る。PDF版は他の形態と異なり、全ての項⽬を⼀覧できるようになっているのが⼤きな特徴で、ま た、⽂字列の検索をすることもできる。 ii 本辞典はパイロット版として世に問うものであり、まだ不⼗分な点が多く、誤りが含まれている 可能性も⼤いにある。それらについては今後研究チームで検証し、追加調査も⾏いながら、随時修 正を施していきたいと考えている。ご利⽤になった⽅々の忌憚のないご意⾒をお寄せいただければ 幸いである。 チベット牧畜語彙収集プロジェクトを代表して 星 泉 チベット牧畜語彙収集プロジェクト 代表: 星泉y(東京外国語⼤学AA研) y印は科研のメンバーでもあることを⽰す。 副代表: 別所裕介y(駒澤⼤学) 共同研究員: ギャイ・ジャブ(⻘海師範⼤学) ジュ・カザン(⻘海省ゴロク州政府) 海⽼原志穂y(東京外国語⼤学AA研) ナムタルジャ(⻘海⺠族⼤学⺠族社会研究所) 平⽥昌弘y(帯広畜産⼤学) 津曲真⼀(東京理科⼤学)[2014年4⽉から2018年3⽉まで参加] 岩⽥啓介(⽇本学術振興会∕東京外国語⼤学AA研)[2017年4⽉から参加] 研究協⼒者: ⼭⼝哲由(京都⼤学) ⼩川⿓之介(帯広畜産⼤学) 所属は、2018年4⽉現在のものです。 iii 謝辞 この辞典は、東京外国語⼤学アジア・アフリカ⾔語⽂化研究所共同利⽤・共同研究課題「“⼈間― 家畜―環境をめぐるミクロ連環系の科学”の構築〜⻘海チベットにおける牧畜語彙収集からのアプ ローチ」*および「⻘海チベット牧畜⺠の伝統⽂化とその変容〜ドキュメンタリー⾔語学の⼿法に 基づいて〜」*、科研費基盤研究(B)「チベット牧畜⺠の⽣活知の研究とそれに基づく牧畜マルチメ ディア辞典の編纂」(課題番号15H03203)*、⽂部科学省特別経費「⾔語の動態と多様性に関する 国際研究ネットワークの新展開」(LingDy2)および、同「多⾔語・多⽂化共⽣に向けた循環型の⾔ 語研究体制の構築」(LingDy3)の研究成果の⼀部です。(*印のプロジェクトの通称として「チベット牧 畜語彙収集プロジェクト」という名称を⽤いています。) 調査および辞典の作成にあたっては⼤勢の現地の⽅々にお世話になりました。調査地のみなさん (カワ家、リンチェンジャ家、タクラブム家、ジャホワジャ家をはじめとする現地の⽅々)は、し つこく細切れの質問を繰り返すわれわれを根気よく導いてくれました。彼らの素晴らしい技術や知 恵、そしておいしいごはんと腹のよじれる冗談はわれわれのエネルギーの源でした。辞書の公開と いう形で、ささやかながらお返しができればと思っています。 ⻘海師範⼤学のギャイ・ジャブ⽒および⻘海省ゴロク州政府のジュ・カザン⽒には牧畜⺠出⾝の 専⾨家としてサポートをしていただきました。また、牧畜⺠出⾝の作家のツェラン・トンドゥプ⽒ にも様々なアドバイスをいただきました。ただし、辞書の内容に誤りがあれば、当然ながら全ての 責任はわれわれにあります。 また、プロジェクトの⼀員である⻘海⺠族⼤学のナムタルジャ⽒は、調査地のみなさんと研究チ ームの橋渡しという重要な役割をつとめてくれました。ここに記して感謝申し上げます。 辞典の制作にあたっては、各種データベースの構築、⾳声切り出し、オンライン版作成、PDF 版組版などに携わっていただいたチュラロックス、挿画を担当してくださった漫画家の蔵⻄さん、 PDF版の装丁を担当してくださった⻘⽊和恵さん、翻訳校正管理とiOSアプリ制作を担当してく ださったカワチェンに御礼申し上げます。 iv チベット牧畜⺠の現在と私たちが⽬指すもの 別所裕介 「⽣き⽅」としての牧畜 牧畜とは、今からおよそ9千年前に⻄アジアの⽺飼養から始まり、そこから広くユーラシア⼤陸 全域に広まった、動物の群を管理することで⽣活資源を獲得する⽣き⽅である。その⽣業形態はご くシンプルであり、⼈間が直接資源として扱うことができない草原の草を、家畜の胃袋を介してミ ルクや燃料などの⽣活資源に換えると共に、去勢や避妊の技術によって畜群の⽣殖コントロールを ⾏い、余剰となった家畜から⾁や⽑⽪を⼿に⼊れる、というものである。搾乳したミルクはバター やチーズに、⽑や⽪はテントや⾐類の原料となる。畜群は物資輸送にも優れた能⼒を発揮し、定着 農耕⺠との間で⼤規模な交易を展開することができた。 こうして、⾐⾷住に関わる⽣活資源のほぼすべてを動物に依存して成り⽴たせる、⾼い⾃給性と 持続性を保持した⽣業の体系が、⻑らくユーラシアの乾燥地帯における⼈間の⽣存基盤となってき た。しかし、19世紀以降、領⼟主権の概念を元に形作られてきた近代国家にとって、広い国⼟を占 有し、流動的に動くことで⽣計を成り⽴たせる牧畜社会は、国⺠統合を進める上で⼤きな障害とみ なされた。中央集権的な国⺠統合を必須とする近代国家の政治体制にとって、⼟地よりも家畜に依 存する遊動的な⽣活を送り、国家よりも部族的な権威に重きを置く牧畜⺠の社会構造は根本から矯 正され、馴致される必要があったのである。 チベット牧畜⺠の現状 20世紀の中葉から社会主義を採⽤した中国でも、国⼟の⻄側に暮らす牧畜⺠に対して同様の近 代化プロセスが進⾏した。そのプロセスは共有制と私有制の間を激しく揺れ動き、その中で牧畜社 会の経営合理化が⽬指されてきた。国家にとって牧畜社会改造の⽬標はあくまでも「⾷料増産」で あり、より多くの⼈々の胃袋を満たすために、労働集約と⽣産⼒強化が最重要の課題とされてきた。 だが、⻄部⼤開発が始動した2000年以降、その近代化の⽅針には「⽣態環境保全」という⼤原 則が付随するようになった。「⻑江の⼤洪⽔」や「⻩河の断流」といった1990年代後半から打ち続 く⼤規模⾃然災害の「元凶」が、これらの⼤河川の⽔源域に住む牧畜⺠による恒常的な「過放牧」、 すなわち⽣産過剰にあるとされたためである。2002 年以降、「三江源」と呼ばれる⻑江・⻩河・ メコン川の⽔源区(総⾯積30.25万km2、牧畜⺠⼈⼝約50万⼈)の環境負荷を下げるためとし て、同地域の牧畜⺠を段階的に都市部へと退去させる集住化政策が⽮継ぎ早に施⾏された(2002 年—退牧還草、2004年—⽣態移⺠、2009年—安居⼯程)。 この結果、三江源の中核を占める⻘海省では、2014年時点の推計で21万⼈に上る牧畜⺠が都市 近郊に設けられた居住区(移⺠新村)へと移り住み、集住⽣活を送るようになった。これにより事 v 実上、チベット牧畜社会は家畜と共に草原に居残る⼈々と、家畜を捨てて都市部に移住した「元・ 牧畜⺠」のグループとに、少なくとも政策上ははっきりと⼆分されたのである。 チベット⼈の居住地域と⻘海省三江源⾃然保護区の指定範囲 *FIELDPLUSno.16掲載の地図(制作:©DesignConvivia)をもとに作成 牧畜の「⽣態産業」化 この移住政策の進展と並⾏して、⽣態環境の保全を最優先しつつ辺境経済の底上げを推し進める ために導⼊された政策が「⽣態牧畜業建設」プロジェクト(2013年〜)である。草原に残存する各 世帯が所有する家畜を整理・統合し、組合式の集中管理体制(「合作社」と呼ばれる)へと移⾏させ ることで経営合理化を図ろうとするこのプロジェクトでは、合作社ごとに⃝ヤクの⾁や乳、⽑⽪な 1 どを⽤いた有機⾷品や⺠族⼯芸品の開発、⃝冬⾍夏草を始めとする薬草類を素材とした健康グッズ 2 開発、⃝牧畜⺠の素朴な暮らしを観光客に体験してもらうエコ・ビレッジ運営、といった経済活動 3 を⾏い、都市部に暮らす消費者の嗜好やニーズに合わせたビジネスモデルを確⽴させることが推奨 されている。 2015年の⻘海省農牧庁による報告では、この種の合作社を⽴ち上げたモデル村は全省で961か 村に上り、11万5千世帯(モデル村総世帯数の72.5%を占める)に及ぶ牧畜⺠が何らかの形で事 業に参画しているという(「中国新聞網」2015年5⽉28⽇記事)。このように地⽅政府は、中央 からの潤沢な資⾦供与を後ろ盾として牧畜⺠に労働集約と経営合理化を呼びかけ、家畜頭数を削減 すると共に、畜舎の整備や機械化を促進して近代畜産業の成⽴を導くことで、「環境にやさしい牧 畜業」を創出できる、としているのである。 vi 「牧畜の価値」の所在 以上の趨勢を全体としてみれば、国家・政府にとっての「牧畜の価値」は、「環境保全」と「産業 化」の両⽴を可能とする範囲においてのみ認められるものである。この2つの押しとどめがたい流 れの中で、家畜を介して⾃然から⽣活資源を獲得するひとつの⾃⾜した⽣業としての牧畜の総体は 解体され、局所化されていく。「環境」の観点からは、家畜を野放図に増やし、広⼤な草地を利⽤す る「⾮定住⽣活」は害悪であり、牧畜⺠の⼤半は草原から退去し、近代的な畜産業を担う賃⾦労働 者への転⽤が促進される。その際、労働者に必要な知識や技能は精⾁、乳製品、⽑・⽪⾰加⼯の各 分野において⼯業⽣産に特化したものと、これに関連するサービス業の分野に絞り込まれる。こう して、これらの産業維持に関連しない家畜資源の利⽤、すなわち⼿作業による家内的乳加⼯のプロ セスや燃料糞の加⼯、機織りや⽪なめし、種付けや去勢、屠畜や剪⽑などの熟練を要する技術、お よびこれに関わる道具使⽤や移動放牧⽣活における畜群の管理⼿法と環境知識など、太古から営々 と蓄積されてきた家畜に関する総合的な⺠俗知は社会的に無⽤とされ、忘れ去られていく。 政策的なリードを⾏う為政者の側からは、上記の⼀連の変化(=家畜に関わる⽣産体系の局所化) は動物に過度に依存する原始的な暮らしからの脱却であり、「歴史的な進歩」であると捉えられて いる。中国全体の市場主義経済との適合性においてのみ「牧畜の価値」が⾒いだされ、膨⼤な予算 付置によって「⽣態牧畜業」への転換が図られている現状においては、たとえば環境保全をめぐっ て、牧畜⺠こそが⻑期にわたって草原を持続可能にしてきた主役であり、むしろ彼らの移動性を持 った⽣活の知恵に学ぶべきである、といった、「牧畜の価値」のすそ野の広さを異なる⾓度から指 摘しようとする少数者の声はかき消され、社会の表⾯に上がっては来ない。 辞典を作ること―取りこぼされる価値を拾うこと 私たちはここで、国家が主導する「牧畜の価値」の定位と⽅向付けが全⾯的に悪い、と⾔いたい のではない。世界のあちこちで、特に「フロンティア」とか「辺境」と呼ばれる、⽂化的・経済的な マイノリティが暮らす⽣活社会において、グローバルな経済市場の⼒に晒された伝統的な⽣業が、 より効率的な⽣産を可能にする産業システムへ置き換えられる事態が加速度的に進展している。翻 って⾒れば、⽇本に暮らす私たちの現在の⽣産と消費の有様がそのような経過の産物であり、私た ち⾃⾝がもはや後戻りできない不可逆的な「価値の変動」を経験している。そしてその経過は必ず しも、外部からの押し付けによって⼒ずくで進⾏したのではなく、先⼈たちが⾃ら⾃発的に考え、 選び取った結果をも含みこんで成り⽴っている。その意味でいえば、現代の牧畜⺠が直⾯している のが「全⾯的な喪失」であるのか、それとも(国家が⾔う意味での)「歴史的な進歩」の⼀過程であ るのか、あるいはそのどちらにも帰せられない別種のプロセスなのか、部外者である私たちがその 変化の内実を評定する⽴場に⽴つことはできない。ただ⼀つだけ⾔えることは、今現在そうした価 値の変転に曝されている社会の中に、⼤なり⼩なり「痛み」を感じている⼀群の⼈々がおり、その 痛みを少しでも和らげるべく、それぞれができる範囲での活動に従事している、ということである。 vii 私たち「牧畜語彙収集プロジェクト」の研究チームが⽴ち上がる数年前から、現地牧畜社会では チベット語の伝統知識の継承を⽬的とする複数の草の根の⺠間団体が活動していた。その筆頭格で ある、三江源の中核に位置する⻘海省ゴロク州の名刹・ラジャ僧院付属の私設学校(⼩学から⾼校 部までを擁する)では、牧畜語彙に特化した図版⼊りの⼩辞典が刊⾏されていた。牧畜社会で⽤い られる⽣活⽤品や家畜種の写真画像に短いキャプションを付したこの作品(この地⽅の常として、 中国⼤陸のマイノリティの書籍を扱う⾹港の天⾺出版から⾃費出版された)は、地域の⼈々の⼿を 介して幅広く普及し、他地域の私設学校で貴重な⺟語教育の教材として⽤いられたり、村々の⼩学 校でボランティア活動として実施される児童向けの「チベット語(⺟語)語彙検定」で、問題作成 ⽤の元ネタとして活⽤されたりしている光景を直接⽬にしてきた。 ここから、私たちが⾃らのチームを結成して『チベット牧畜⽂化辞典』のデータベース構築に乗 り出すまでに⼤きなステップは必要なかった。現地にすでにあるニーズを汲み上げ、これに側⾯か らの⽀援を⾏うことで、彼ら⾃⾝が「牧畜の価値」を⾃らのために定位していく⼿伝いができるか もしれない。3⾔語による解説に加え、写真とともに、⽇本で活躍するプロの漫画家の⼿になる詳 細なイラストを添えること、PDF冊⼦版に加えてオンライン版、iOSアプリ版の三様態で公開して いくことなど、⼀つ⼀つのアイデアはすべて、この⽬標に向けて、私たちが牧畜社会の外から関わ るが故の「強味」を引き出すために付け加えられていったものである。 ⾜掛け4年に及ぶ現地との折衝を経て、その途中経過としてのひとつの成果を、パイロット版と してここに上梓する。現地に還元し、共に歩んでいくための素材としてはまだまだ不⼗分な⾯も多 々指摘されうるであろう。ただ私たちが⽬指したのは、上述の⾏政上の視点から定位された「牧畜 の価値」が取りこぼしてしまうものを、現実の社会での語られ⽅に即して拾い集め、それなりの秩 序だったやり⽅で再構成することだった。少なくとも私たちは、その作業を通して、政府が称揚す る「⽣態産業としての牧畜の価値」は、牧畜語彙の豊かな全体像の中のほんの微々たる領域を占め るに過ぎないことを確信することができた。 本辞典が単に、失われつつある⾔葉の記録と保存にとどまるのではなく、現地の⼈々の声と共に 歩みながら、社会の隅っこに追いやられてゆきつつある牧畜という⽣業体系の知られざる価値まで を含めて発掘していく⼀助となりえることを、切に望む次第である。 viii
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