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Ms. Sachiko Kurosawa in the Himalaya PDF

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June 2012 Journal of Japanese Botany Vol. 87 No.3 213 黒澤幸子さんのヒマラヤ行き(金井弘夫) Hiroo kanai: Ms. Sachiko Kurosawa in the Himalaya 184- Koganei, Tokyo, 184- JAPAN 黒澤さんは1963年の第二次東大ヒマラヤ植物 ことに,特別な困難はないものと考えていた.「ネ 調査に参加した.もちろん,隊長の原 寛先生が パールボンド」というのは,カルカッタへ着いた 誘ったもので,現地での研究用生植物の採集・管 船荷を,日本・ネパール領事館の保証の下にカル 理と,染色体研究用標品の調製をまかせることを カッタ税関が封印し,これをインド・ネパール国 期待してのものだった.黒澤さんは細いけれど, 境へ送って,インド税関が確認の上封印を解いて それまで国内の採集旅行で先生に何度も同行し 国境を通過させ,ネパール税関が輸入手続きをや ていて,体力的には大丈夫と見込んだのだろう. る,というものである.1960年のときにはイン 1960年のシッキム調査の体験で,隊長という立 ド国内への輸入だったので,世界最悪と言われる 場がいかに下らない雑用やトラブルに時間をとら カルカッタ税関の手続きに振り回された.ネパー れるかを知った先生が,本来の目的である研究材 ル税関ならカルカッタほどの複雑さはないだろう 料の収集に,黒澤さんの能力を期待したのだ. し,おまけに両国政府機関の共同調査なので,手 1960年の第一次調査では,予定したシッキム 続きは楽だろうというのが,我々の期待だった. 奥地へは政治的理由で入れず,ネパール国境のシ カルカッタへ着いたわれわれ三人は,早速ネ ンガリラ山脈の東側を調査したのだが,植物が豊 パールボンドの手続きにかかった.ところが意外 富でこれは思わぬ拾い物だった.そこで原先生は. なことに,インド政府はスキヤポカリからの国境 今度は同じ山脈の西側(ネパール側)を目指した. 通過を認めてくれない.日本総領事館は「インド もう一つの理由は,前回のカルカッタでの通関が 政府がダメというのだから,ここではどうにもな 40日もかかり,インド国内への輸入手続きの面 らない.デリーへ行って交渉してくれ」と言う. 倒さにコリて,ネパールへ輸入する方が手数がか デリーの日本大使館は,前日起った日航機墜落事 からないだろうと考えたからである.それに,シ 故の始末で手が空かない.原先生が外務省に掛 ンガリラ山脈のすぐそばのダージリンの住環境が け合いに行ったら,「あそこは道が悪いから,他 優れていることを知った先生は,荷物をスキヤポ の所から入れ」と,出まかせを言う.こちらは現 カリからネパールに輸入しておいて,隊員はダー 地の事情を知らないから,そう言われても反論で ジリンで休養しながらネパール側へ出入りすれば きない.とにかくインド政府は,近い将来インド 良いと考えたと思う.黒澤さんを隊員に入れたの の州に併合しようとしているシッキム(当時は保 は,そういう無理のない想定によるものだったろ 護国)のあたりで,外国人にウロウロされたくな う. いのだ.そのうちに「グームまで運んで,そこへ スキヤポカリはダージリンから自動車で二時間 スキヤポカリの国境税関に来てもらい,立ち会い ほどのところで,外国人がインドからネパールへ の下にスキヤポカリへ運んだらどうか」という提 出入りすることができる限られた指定地の一つ 案に変わった.グームの代わりにジャルパイグリ だった.ネパール人は国境のどこからでも出入り を勧めることもあった.両方ともダージリンへ行 できるのだが,彼らが国の最東端の県であるイラ くときの鉄道の降車駅である.インドの鉄道は国 ムへ行くときには,まずカトマンズから南下して 鉄で,ネパールボンドの貨物は,国が管理する輸 インドへ入り,鉄道で東へシリグリまで行き,車 送機関で送らねばならないというのだ.ヒマラヤ でダージリンまで北上し,そこから西へ向かって 登山隊の経験談を聞かされていたが,鉄道貨物だ スキヤポカリ経由でネパールへ入って,イラムに と,宛て先に無事に予定通り届く保証はなく,何 至るのが常道だった.だから,荷物をネパールボ 日かかるかわからないし,紛失のおそれも大きい. ンド扱いでスキヤポカリからネパールに輸入する だから自分も列車に乗って,そのすぐ後ろに貨物 214 植物研究雑誌 第87巻 第3号 2012年6月 車を連結させ(インドではそういうことができる わされたのだ.ダージリンのウパディア君は,我々 のだ!),それが切り離されないように見張って の宿泊予定のホテルから情報を得ることができず いなければならないという.われわれは第一次調 に一週間を無為に過ごし,あきらめてカトマンズ 査のとき,荷物をカルカッタからダージリンまで へ戻ってから初めて事情を知り,我々に追いつい 陸送業者に託して送った経験があり,私企業の方 たのはビラトナガル出発後三日目のダンクタだっ がたよりになることを知っていたのだが,それは た.つまり我々は,リエゾンオフィサーなしに行 インドへ輸入の通関手続きが終わった荷物で,ネ 動を始めたのである. パールボンドではなかったからできたことだった 10月18日〜22日はダンクタ滞在だったが, のだ. 黒澤さんが発熱したのは20日だった.それを我 インド側がノラリクラリと違う案を出してくる 慢して,23日ムレ,24日ビルバティ・バンジャ ので,なかなか決まらない.そのうちに「ビラト ン(バサンタプールともいう.以下B.B.)と進 ナガルの方が便利だし,そこからならジープを んだが,B.B.で高熱のため立てなくなった.26 使って東へ行ける」という提案がインド側から出 日までここで停滞し,病名がわからないまま,手 てきた.それまではインド領内が送り先だったの 持ちの薬,とくに解熱剤と抗生物質を与え続けた. が,今度はネパール領内の町が提案されたので, ここ迄くると,医者を頼むことなどできない.ビ 少々乗り気になった.何だか分からないが,いい ラトナガルの夜に,蚊に刺されたのが原因と思わ 加減に決めないと時間の無駄だ.鉄道輸送は敬遠 れる.後になって「熱帯医学ハンドブック」とい して,値段は高いがチャーター便の航空貨物で送 う本をのぞいたら,熱発の経過がデング熱にそっ ることにした.航空会社はもちろんインド政府の くりで,これには特効薬はなく,解熱剤で抑える 経営だから,文句はないはずである.しかし通関 だけと書いてあった.われわれが与えた抗生物質 業者は「ビラトナガルには飛行場なんてない」と は役に立たず,彼女は自らの体力と気力だけで, いう.ちょっと調べればわかるのに... .とにか 得体の知れない病気を克服したのだ. くインド航空と契約して,こちらはネパール側と 停滞は調査隊の活動には影響がなかった.採集 の打ち合わせもあるので,カトマンズへ向かうこ する植物はいくらでもあり,冨樫,村田両氏は一 とになった.ところが翌朝,搭乗間際に通関業者 日中付近を歩き回って,山のように採集し,押し がやってきて「インド航空のチャーター便にビラ 葉にしてしまうとまた歩き回って山のような採集 トナガル着陸の許可が出ない.あなた方がカトマ を繰り返し,深夜まで標本の乾燥に精出していた. ンズで交渉して,許可をもらってくれ」というの 津山氏は専ら写真撮影に忙しかった.私はマネー だ.出発時刻が迫っているのでいやも応もない. ジャー役なので,毎日の荷物の整理や食物の配給 とにかく引き受けて,カトマンズへ着くと,ホテ に没頭していた.25日ごろ原先生が「黒澤さん ルに入る前にネパール航空本社へ行って,着陸許 は熱が少し下がったようで,この先歩き続ける意 可の交渉をした. 志はあるが,薬の影響で食欲がまったく無い.口 カトマンズで旅行許可やビザ延長の手続きをし にできるものはジュースや果物くらいだろう.隊 て,すぐにビラトナガルへ向かった.リエゾンオ のジュースを彼女に廻してやれないだろうか」と フィサーのウパディア君はすでにダージリンへ向 言われる.わが隊の消耗品はレーションシステ けて出発した後だったので,ビラトナガルへ来る ムをとっており,ダンボールの小箱を一つ開け ように,薬草局から連絡してもらった. ると,その日の食料がすべて出てくるようになっ ビラトナガルでの出来事は,既にほかで何度も ていた.その中には昼食用のビスケットや缶詰や 書いたので省く.我々三人は,知事のゲストハウ 菓子やジュースがあった.ジュースは明治屋寄贈 スに入っているのに,十月の亜熱帯の二夜を,エ の小缶をほとんど毎日一人一本配給できるように アコンは元より,マットも蒲団も毛布も蚊帳もな なっていた.これをすべて黒澤さん用に廻すこと しに過ごすことになったのだ.部屋にあったのは, にした.他の隊員には一応断りを入れたが,文句 ベッドの枠だけだった.東大総合研究博物館:ヒ を言うものはもちろん誰もいなかった.隊員は六 マラヤ・ホットスポット(2010)に,当時の私の 人だから六本のジュースが毎日出てくる.一度に 日記の断片が記録されている.黒澤さんは初めて 六本も持ち込むのは押しつけがましいから,差し のヒマラヤ行きで,そンなゴタゴタに一々付き合 入れのごとく二・三本を,彼女のテントに持って June 2012 Journal of Japanese Botany Vol. 87 No.3 215 行く.そこで初めて,寝込んで以来の彼女の顔を た. 見ることになった.テントの布地は緑色で,それ 黒澤さんは以後特別なトラブルもなく,12月 にフライがかけてあるので,顔色や表情はよく分 5日にイラムに着いた.ここからはジープでビラ からず,声をかけるのもワザとらしい.ジュース トナガルに戻るというのが,われわれの予定だっ を放り込んでサッサと引き下がった.それより気 た.ビラトナガルの人たちは,雨期は無理だが, になったのは,ものすごく暑いのだ.テントは道 乾期の冬はジープが使えると言っていた.途上で 端の空き地に張られていて,直射日光を遮るもの 尋ねた人たちも,イラムからはジープに乗れると は何もない.ここの緯度は沖縄なみだし,10月 誰もがうけあっていた.しかし着いてみたら当て は乾期の最中だから,雲一つない.入り口側は防 がはずれ,イラムの知事は,あと二日先のサニチャ 虫ネットで開閉できるが,裏側の通風口はごく小 レからならジープが通っていると保証した.サニ さく,風は通らない.それに,開けておけば通り チャレは,山を下ったガンジス平野の端だった がかりの人たちが遠慮なくのぞき込むし,子供等 が,ここにもジープはなかった.それから四日間, は座り込んで見物する.おまけに虫がやたらに飛 我々はガンジス平野のカラカラの痩せ地を,日に び込んで始末におえない.彼女は熱でフラフラな 焼かれながら歩くことになり,この区間が全行程 のに,入り口を閉じて暑さに耐えるほかはなかっ 中で最も苦しかった.荷物を託した牛車は人間よ たろう.夜は夜で,そこらを歩き回っている牛が, り遅く,夜になっても泊地に到着せず,我々は村 テントの張り綱を遠慮なく蹴飛ばすので,安眠で 人の援助で夜具を提供してもらって寺院に泊まる きない.それに一日に何度かはトイレに立たねば 一方,冨樫・村田両氏は遅れた牛車に積まれた標 ならない.これは男でも,時刻や場所を選ぶのに 本の手入れのために,我々の食事にはありつけな 苦労する.まして女性一人では手助けも頼めない. かった.所々に大きな川があり,百メートルほど 彼女がどうやってしのいだのか,後で尋ねるわけ の徒渉を余儀なくされ,黒澤さんもズボンを脱い にもいかなかった. で渡ったそうだ.流れが緩やかで川底が砂質で, 10月27日にB.B.を出発.無理な場合にはシェ せいぜい股までの深さだったのは幸だった. ルパに背負ってもらうつもりだったが,その必要 黒澤さんは初めてのヒマラヤで,スタート直後 はなかった.もともと我々の一日の行程はそれほ の病気を克服し,弱音を吐くこともなく,二カ月 ど長くはない.冨樫さん,村田さんのように山ほ の旅をほとんどフルーツジュースだけで耐えた. ど採集する人たちでも,午後四時ころにはキャン くすりの影響で彼女がかつて経験した網膜剥離が プ地へ着いてしまう距離で,原先生は二時すぎに 起るのではないかと,原先生は心配していたが, はそこへ着いて,テントを張る場所を選んでいた それも起らなかった.ビラトナガルに帰着した翌 から,なんとか頑張れたのだろう.しかしタムー 晩,ウパディヤ君が果物の盛り合わせ籠を従者に ル川沿いの道は,その夏の大雨で至る所破壊され 持たせて,彼女の誕生祝にと威儀を正して現れる ていて,地滑り跡の横断や,危なかしい竹の仮橋 というハプニングで,花を添えてくれた. など,初めての彼女にしては手ごわいコースだっ

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