TThhee LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical SSoooiceityety ooff JJaapapnan 蝶と蛾 τrans, lepi.d Soc.」αpan 58(3):317−340, June 2007 M ,A. FentOn から石川千代松へ の手紙一 日本の近代的蝶研究の断面 k 中村 和 320−(工037 栃木県宇都宮市清住 3−5−17 Letters from M . A . Fenton to C. Ishikawa− Aspects of the early stage of modem LepidopterologyinJapan KazuoNAKAMuRA 3−5−17,Kiyosumi, Utsunomiyu−shi, Tochigi,320−0037亅ap 皿 Abstract Six letter ssent from M . A. Fenton to C、 Ishikawa in the 1880s are preserved in tlle UPnriovfeerssist o oyrfM uZsoe〔u〕lmog yo fi n Ttohkey Uon,i vanedi’s intoyw〔, 「sThoowknyo ,f1ohre tlhee tftier res osttntiamien. mAansy I sbhiiokalwoag ilca taanetd rb eecntaommoe a− logic atlopics of historica ilnteres. tThese letter rseveal new faots about the己arly period(,f moctern Japancse lcpidopterolog.y A lette rwritten in thc sumrner of 1884 demonstrates a hithert ounknow 冂 c ntribution o「Fcnto ltlo thc idcntifica tofi oun Luehdotlf biuatterf, iwyhich was llewly dj〜covered in the mainland of Japan by Y . Nawa in April,1883. A telユtative l27 species catalogue of Japanese butterfl icoemspiled at that tLme i srestored 「rom the lett earnd related references . Seria nlulエibers froln the lis twcre used in the lette rto dcsignatc thc butterfl yspecies . for the convenience of mutual communication . Key words M . A. Fenton, C. lshikaw,a A, Tanakadat, eK. Mitsukur,i加ε1τ40ψα, butterf clayta − 1〔}gue(,f亅apan . 1.まえがき Montague Aithur Fenton(185〔H937 )は明治初期の 日本に6年以上滞在 し1 昆虫相解明に大きく真献し た英国人だが,これまで 日本での採集旅行の記録(江崎,1955e)以外,ほ とん ど何も知られてい なかっ た.近年,旅行に同行 した田中舘愛橘の 日記発掘を端緒と して,国内での 正確な足跡が確認 され,蝶採 集地点が見直された(松田,1999;中村,2002),2003 年夏,栃木県氏家町の ミュ ージアム氏家 [現・さくら 市 ミュ ージア ムー荒井寛方記念館]はFentonが同地で発見したシル ビアシジミに囚む企画展を開い た (ミュ ージアム氏家,2003).これを契機にFentonが田中舘に送っ た多数の手紙が公開され (松浦ほ か,2005),手紙を手がか りにFentonの生涯の大筋が明らかになっ た(松田・中村.2005〕, 「1本動物学会の保存資料に,もう一人の 同行者・石川千代松に宛てた手紙があ り,東京大学総合研究 障物館に所蔵されてい た.田中舘は地球物理学を専攻したが,石II[は動物学専攻だっ た.その為石川 に宛てた手紙は生物学・昆虫学的内容が豊富で,昆虫採集家としての Fentonの 人物像をよ く現 してい る.今回の報告はFentonがfijlにl宛てた手紙を紹介 し,昆虫・生物に関わる部分を和訳 した.さらに手紙 の内容か ら明らかになる明治初期の近代凵本蝶研究に関する二つ の事項,即ち新発見の ギフチ ョ ウ 同定へ の Fentonの 関与 *,並びに当時Fentonが作成 したと考えられる初期の 「日本蝶類目録」の復元, を考察した, 2.石川干代松の略歴及び Fentonとの関係 石川千代松 (1861−1935)(Fig.1)は東京に生まれ静岡で育っ たが、父と東京に戻り,1874年外国語学校 に入学した.東京大学予備門 (教養課程)を経て 1882年理学部動物学科を卒業した.1889年,3年10ヶ 月の ドイツ留学を終え帰国し,翌年8月東京大学 農 科大学教授 となっ た.外国語学校の時期か ら *ギフチ ョ ウに関する考察は日本鱗翅学会52回大会で報告した (2005 年,藤沢;B210) 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic LLiibrbarryary Service TThhee LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical SSoooiceityety ooff JJaapapnan 318 中村和夫 Fig. L Chiyomats ulshikaw.a LOct,19341 from The comp ]ete works of C. Ishikawa, vol .1.(石川 千代松 [I召I和9年10月]石川千代松全集1所載)、 Fentonに師事 し 指導を受けた.彼が「後年動物学を専攻し,本邦学界に重きをなしたことはFentonの影 , 響が大きな力」(江崎,1954a)とされる, 蝶を雫題 とした近代昆虫学はFenton, Pryer, Leech らによっ て主に莫国か ら目本へ 導入 され,石川はそ れを先駆的に受容した.自身は後に動物発生学,生態学分野を専攻し,多数の著作執筆,進化論の普及, 実践的な漁業指導などを務めたが,学会出席中に台湾で客死 した.妻・貞了・は明治期の学者に して官 僚・箕作麟祥の 長女,師・箕作佳吉は麟祥の従兄弟に当たる.石川の多彩な生涯に関しては,名和昆虫 研究所編集部 (1911)、追悼記念号 (谷津ほか,1935),追悼集 (佐々木ほか,1935),全集(宮嶋(編),1936), 伝記(町田,194D,人物評伝(上野,1946)など多くの記述があり,参考と した. Fentonは 1874 (明治7)年1∫]か ら「お雇い 外国人」として東京開成学校の 英語教師を務め,温厚・誠実 な人柄で人望が厚かっ た.その生徒に田中舘・石川がい た.英語研修を兼ね,彼らを通訳及び採集補助役 に伴い ,日本国内の昆虫採集旅行を行っ た.円中舘は 1875−1877年の関東甲信越,東北旅行,石川は 1877−1879年の東北,北海道旅行に同行した (松田, 1999).Fentonは 1880年春英国へ 戻っ たが,帰国後 も二 人との交信を続けで1青報交換を行い ,彼らが欧州を訪ねた時に会っ て旧交を温めた.視学官を務め Table l Resume of 7 ]etters to lshikawa by M . A . Fenton(Coll. Univ. Mus . Tokyo , except No.3). (石川千代松あて Fenton手紙7通 (東京大学総合研究博物館蔵. No.3 を除 く)). No. Date Day Points of dis atch .発イ言地 一£ 一 1 1878.6. 8 Sat, 東京:三(御?)国通 り[ 2251 2 1880.7.18 Sun. Doncaster +8 [3】2/ 1883.10.18 Thu. Cambridge ? 4 1883,1L26 Mon . 12.Sussex St. Cambridge 59140 5 1884.7.9 Wed . Worthing Co】lege)i +313648 6 1885,3, 8 Sun. 36 Bateman St. CambridgeL〕 71888 ,6.28 Tllu, 122 Siclai rRd. W .Kcnsin ton +2 il Newly recorded djspatc ahdrcss (新た に判明した発信地). ’ 2」Lette qruotcd partiall byy Esaki(1955a h), missing at pre.gent (江二i「1奇7bs音防}引用), , 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic LLiibrbarryary Service TThhee LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical SSoooiceityety ooff JJaapapnan M .A. Fentonから百川千代松へ の手紙 319 Fig.2. Drawing of spider (a part of lettc rNo.4).(ColL Universj tMyuseum , Universi tofy Tokyo). (クモ の図 (手紙4の 一部).〔所蔵:東京大学総合研究博物館)). 一1 「 Fig.3. Drawing ef land planarian(a part of lette Nro一.4).(Cc)11. Univcrsi tMyuseum, Universi tofy Tokyo).(陸生プラナリアの 図 〔手紙4の 部).(所蔵;東京大学総合研究博物館)). Fig,4. Identilica tniootince of Luehdotfia.(a part of lette rNo.5).(Col1. Universit yMuseum , University of Tokyo ),(ギフチ ョ ウの 同定回答(予紙 5の 一部).〔所蔵:東京大学総合研 究博物館)). 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic LLiibrbarryary Service TThhee LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical SSoooiceityety ooff JJaapapnan 32 中村和夫 側 酬 E 1 靉 伽 峻 楓 1 呵 硫 ’ PWt ノ , 臨 秘 ; ; ・ ・…r / 〃斥 ζ ・ ’・g 引: 難鏤 鑿 Fig,5Designation of requested buしterfly species by scicntific names or numbers .〔a part of letter No.2)(Col[.・Univ. Museum , Univ, ef Tokyo).(入 丁希望の蝶を学名または番 冒・で指定 (手紙2の 部).(所蔵:東京大学総合研究噂物館)). ! 4 必話 カプ ム 喫 覦 、 墜 ∠ 欝 乏 ψ 祕 ゴ . 否 7 匁 パ Fig.6. Nick na皿 e of A. Tanakadate(a part of lette Nro. 4).(Coll. University Muscum , University ・ of TokyQ).(田中舘愛橘の愛称 (手紙4の 部).(所蔵:東京人学総合研究博物館)). たが,第..・次世界大戦後に娘の住む米国に渡り,86歳で Catifoniiにa没 した (松田・中村,2005).生涯, 直接論文を執筆するこ となく,試1粉 鬼集・仲介に徹 したアマ チュ ア昆虫家だっ た. 3.石川宛の手紙 今知られる石川宛の 手紙は7通あり,内6通が東京大学に所蔵され る (Table l).他に出所が同一と見 られる 1通,即 ち江崎 〔1955a, 1フ)が 一部を紹介した手紙3がある.これは「蝶 の 同定につ い ての詳しい 通 信」だっ たが, ジ ョウザン シジ ミに関する採集。己録部分が引用された (江崎,1955a).今回の手紙群と 共に管理 されてい たものを江I奇IIが所持 したと思われるが 現在ノし州大学に所蔵さk ず,所在不明である. , 手紙3は冉現可能な部分を記録 した,手紙5の 冒頭と末尾部分は石川 (1931)も.1召介した.手紙 1 5,6 , の発信地 [住居 とは限らない1は前報(松浦ほか,2005)に含まれない新住所だっ た. 手紙1は在日中に書かれ,採集に行 く装備を打ち合わせて い る.年1回の大旅行の 他に,彼らが小金野 = ([9千99;葉岡県野松,戸20市01小).金ヂ紙原)2−な7はど全へ 小て規18模80な年採代集に旅英行国かを再ら発こ行信っさたれ事た実,手は紙文4部は省田記中録舘な宛どのに手残紙る15(松〔松出浦, . ほか,2005)に同封され,手紙7は ドイッ留学中の石川がFentonへ 送っ たハ ガキに対する返事として 書かれた. 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic LLiibrbarryary Service TThhee LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical SSoooiceityety ooff JJaapapnan M .A. Fentonから石川 丁代松へ の 干紙 321 鏨、郎、 h. 虜....,、、 /t 3 茎,, 訊 t調 タ 妻 講 齲謬蘿 し駆tPr ξ’,/{准曜;. 鱗、 論 雰獣 一’ 磁 饕 総 鬣警 縫 Fig.7. Parts of the diar ywritten by Y. 六 六 六 六 七 七 七 月○月○月0 月○ :月○ 月○月○ Nawa .亅une and july 1883 and typed 廿本廿午廿午甘東 :十本田十本十本 lctter,s〜howing 血e period of trip to 二 日三后四后五京 :五 日子六 日七日 Tokyo .(Coll, Nawa Entomological 日東目九日八 日へ :日迄の 日午日熱 Laboratory).(名和靖 日記 明治16 曇京へ 晴時出晴時横晴入ル ::晴在京浦丸 晴后六晴田ヲ 年6,7月部分と活字文 「L京時期 出曇帆 濱 : 時雷経 を示す1.(所蔵二名和昆虫研究所)). 立半ノ へ :囎日 霧 ス 気 劉 … 土船 着 曜青 ス 龍 立 へ 時 丸 六 到 過 時 着 仮 乗 半 ス 寓 組 出 セ メ 帆 リ リ ノ Fig.8. Oldest Luehdoirfi、aノaponica specimens exhibited at Nawa lnsect Museum , Gifu[co]lecte din 1893],(Coll, Nawa ln s. ect Muscum ).(名和昆虫博物館展示の最古のギフチ ョ ウ [明治 26年採取].(所蔵:名和昆虫博物館))、 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic LLiibrbarryary Service TThhee LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical SSoooiceityety ooff JJaapapnan 322 中村和夫 Fig.9. Flow chart of specimen and info adon aUhe period of ム融 4でゅ disc。very in Japan. (・ギフチ ョ ウ発見時の標本 と情報流れ図). Fig.10. Beginning part of Catalogue of Lepidopte:raScienti fMiucs , Univ. Tokio 1882.〔Col]. Univerisi otfy Tokyo)[Letter sseen through back side are retouched 」.(東京大学理学部博 部場 1882年:鱗翅目カタロ グ冒頭部.(所蔵;東京大学)[裏面から透けて 見える文字を 修正・除去した]). 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic LLiibrbarryary Service TThhee LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical SSoooiceityety ooff JJaapapnan M .A. Fenton から石川千代松へ の 于紙 323 巳vents ・and・Lis・tc。mpilati。n 関連事項とリスト編築時期 6 Expedition採集旅行 : ・ ・ ・ 閧東 甲信越 開東 甲信 越 関東 東北 北海道 .一.一..... ..一 一一 一一一 5 ●● ●○ 一 邑 ●● Dreft&Specimen sending :草稿・試料送付 :刊行 i ▲▲ ー一一一一 一一丗一一一 4 ation ム 一 乞Φ 3 C er一 v t. r i b. ut一i@ o .n:投稿 一gnatH 一 一 一÷一一}一s一t , An:、n一・一一 )St一一一己.ゆE一一一 〉 山 一 . − Publ 竄旧 トー一.一 518761877 ÷. 叫18 BuUer 2 B ( ◎me.E …口匿 List cemp 1 atioG Y r1 7B リスト 纂 ) 0 鼈黶D一.. ◆ 1878Fig . l l. Estimation of the compilation period of Fenton catalogu D (フこ匚ント 目録作成時期の 推定), 4 .石川宛の手紙の特徴 田巾舘宛の 手紙がギに時局・旅 行・日本に関する 思い出・感 などを話題として綴られたのと異なり, 石川宛の手紙は多くの部分が生物試料 受の連絡,試料 授 処理法,参 考文献の 紹介,など生物関係の 問題に費やされて いる,その点旧中 舘宛 の于紙 とは なる,次のような二人の 係toをn 示しとはてい終生る「.友 人」(に1近)い師知弟己としとてし交て誼の対を応続けた田.中舘・は自方分石よ り川少にしと年っ て長(Fe6nt歳on)で,専は攻llも歳異な年る長Fで る上,英 語教育及び同じ生物 学分野の 専門家であ り,終始「指導者:生 徒」の関係だっ た.自分の離日当 ,未だ大学2 年生(19歳) だった青年 ・石川の印 象で,帰国後もFenton は書き綴ったと考えられ . 手 紙 4 にある陸生プラナリアの固定・ 片作成法に ついての 懇切な指導にその典型を見る. Table l に纏めたように事務連絡的 な手紙 怩 ュと多くは長文である ,特に手紙2 は総 長宛の手紙に 同封した小紙片だが, 裏に小さな字が ビッシリと並ぶ. (2)生物試 料の 授受 Fenton から見て生物学分 野に進んだ石川はいわ 「同業者」であった.于紙3に推測されるButterfiyhunter と言う表現は Fcnton 一石川 間に存在 た,蝶採集と言う共通の 趣味 を抱く同好者間の親近感 を示す. 帰国後の Fenton にと って ,石 Fはig人.2手),困コ難なウ日ガイ本ビのル試(料をFi,g心易.く3依)頼,でサきンるシ絶好ョの窓ウ口であウっオた に.及ぶ .その 対象Fは昆e虫nのtみなoらnず,が植 物広 くの自種子然,物クにモ興 を 持つ 博物学的関心を持っ ていたのは英 国社 会での素養だったのだろう . 一方では石川 が送る 虫の価格,経費 のか から ない輸送法など ,極めて実利的な文言が認められ, Fenton がアマチュ ア 虫家であった と同時 ,手 広く標本授受の仲介を行う 事業家的な側面を持った こ と が想像できる. しかも総長宛の手紙に同 ’ NしIたIf-紙El2eにc蝶注t文roのn記i述がcあ Lっiてb(rFiagry、 5S),er取v引iが決cしe TThhee LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical SSoooiceityety ooff JJaapapnan 324 中村和夫 T a bl e 2成. Rしesたtor日e本d ca蝶tal類ogue目録 of( 1J8a7p6a−n「7e7s 年ebuフttェerンfl,ト iperンse作su成medと t推o b定e 〉e)o.mpiLed by Fenton in l 876−’77.(再構 Fam. Papilionidae 61V 齠 、∬a angelica, Cramer. l Papilio Hippoc厂ales, Feld. キアゲハ 62Vane∬ σP弓腕 , OJans。n. 2Paj ワili oXuthus, Linn. アゲハ チ ョ ウ 63 Vとltle∬ a Io, Lilln. 3Pal )ili oDe〃letrius, Cramer. クロ アゲハ 64V 鰓 ∬ a Antiopa, Linn. 45PPaa ,ρワ”iiわi. oDAelhcaiannoiuポ,, FKelludge,r カジラヤスコ アウゲアハゲハ 6656V1iとa1’nlees∬saa )Vi.a anttbuhm‘丿mel,a sW .,V Wic. tVQ.,r 6Pa /♪ilioルfacilentu,s0. Janson. オナガ アゲハ 67 ▽it〃essa sp. 8P 角ワili oSarpedon, Lilm. アオス ジアゲハ 68V 跏 8∬ a Clat“r,(冫nia , Motschulsky (F1a2mGo. Pnieじprtiedae r)),x Rhanini, Linn, ス ジボソ ヤマ キチョ ウ 6790PPy}・厂ア・aam.meeiiss Jcnαd厂4ic廨a,, HLeirnbns.t. 1134CCooli伽as∫ 卿Shiomεoπdoa↓, DienrnO.rza. モミヤンキマ チモ ンョ キウチョ ウ 7713Arムg晦.},t,nhniesa Lpeaplildeas,c eMn〔s,〕 oBruet.l. 16Aporic Ctrcgt‘legi, Linn.* エ ゾシロ チ ョ ウ* 74Arg >:nnis Paphia, Linn. 17 ∫vnc 〃oざc厂ftcivt丿尸o, BoisduvaL モ ンシ ロ チ ョ ウ 76Arg }・nnis S‘lgan ‘i,Doub1, HeW . 1208APnitehrci、s冫 cMlzeαl厂eits Se、 cM幽oelynmus.’, Butl. スッジマ グキチロ ショウロ チ ョ ウ 7778Aん 署yy1翻〃τゴ∫s」ムゆ〉,siopηpeたo,0,M.Joa皿nsctornics, 2213Leコuセri(a;osp hmaansdiaarin aAmit. rDeenls『Oi, rMszcan . キヒメチ ショ ロウチ ョ ウ 7890AA 耽厂99.yvnηnηiご∫.s’ RFaoh砌dia}lt, l,B OuJtla,nson. 24 Terias Hecabe (?) キチョ ウ 81Arg .ynnis Ne广il)1♪e, Fe】der. 25 Terias Betheseha,0 . Janson. ツマ グロ キチ ョ ウ 83il4elit‘;asecerosia Butler 26Terias /aegeri , Men . ッマ グロキチョ ウ 84 ハ4elitae aniρhona Butler (Faln. HellCQnidae) Fam. Lycaenidae 27Danais Tyti, aGray. アサギマ ダラ 85 Anr,ps sp, Fam. Satvridae 86AiJib}l/podiαノaρonic α, Murray. 2289Leムtehthee’ SDiicaet’’tlai,, s BHuctwl.. ヒクカロ ゲヒチカゲョ ウ 8990TThheeectala lSuat‘アea,ε ∬Herwiaittas, oHne,w . 3312N畷印y(ρalεesGih‘」 sPchekrev‘iitiscchcital,s H, cMwen,. サコ ジトヤキマノメダラヒカゲ 9913T hTehcetcata//oanpaosnii ,( /(a), .N」lImusroエnay.. 3334Nノ>e召o‘p,e1丿e ごFαe〃’litopntie, rBiu, sBtuLtl. キヒメマ キダマラダモ ラドキヒ カゲ g9587 T/hheecc幽llaa Moeri erant,a0li.s ,J Ma皿usronra.y. 35H 〜〃 ακ 肋 朔 α’α’α, M 飢.sch. ジャ ノメチョ ウ 99Ch .rysophanus phloeas, Linn. 36Hippa,でhia Schreiikii, MCII. オオヒ カゲ lOl Li}尸ごaena Pi:y8厂’, Murray. 333789CPo}aieptrhiimaair.ogne.v iAa’ncrjhワgihn”as ‘,a) niBnduutettsfl,e .Biut畠,l B.utL ウヒヒメメラウヒジカラャナゲノメミジャノ メ 111〔00}324L4右y.1y,(c(]a幽aaeeennnaaa JAAarrpggoitn‘iti, , scMLaei,n neMntu.rrireasy.. Fa44m12S . aENtryyembp厂ihlaal Sl i>Di砂ediaゐdeoani〃ncia‘z,, 0Ev.e亅arnSsolnna..n ベツマニ ジヒロカウゲラジ ャノメ 1[丘(00,685L 〈v五c,y厂icapaeehnncoatn aKBda〔 a)zde. taiimcso’tapo, a闇L, ij, LnDsnru.i]cce. 45 Li剏 enitiポSibi〃ζ1, Linn. イチモ ンジチ ョ ゥ 109L)’caena Hellot‘i1, Men . 46Araschnia Btt’ψ 〃α. Bremer. サ カハ チチ ョ ウ 110 肋「iletu∫ Hamada, Druce. 47 ATaschniaノ註1Zακ,0. Janson. サ カハ チチ ョ ウ Faln. Hcsperiidac 49Ap ‘齢{rα sul)stitetta, Butl. コ ム ラサ キ lll Daitnio琵 所>w, Men . 5501 [E)titc’ifhporurs/aagpioa nNiecsaim, aFcehluds., Boisduval.スゴマミナダガラチシ ョ ウ lUI32 JPsanmtpehniel Jaa pso)’nlivcaan.t Mt,us rvarra,y E.sper 52EuriPit sCha”ondas , Hew オオム ラサキ ll4 Jsoteino’nα’Tlp厂ospitus , Feld, 555654 ・〜、NV〉Te’eejpワpttiti,ssi LPsiuOnct’leemrriit,l nBleua、d tHi,lecW.皿B, S.cPhrafyfeerr. ホコフシミタススミスジジチジョ ゥ l11l1⊥567 PPa(≧amympdphi‘,lがメli礁r‘ai . p3v0e‘rπlnat1tαius,t Mcuird,, raB.Marye’ulr.rna.y . 57i>kpti sAtwina, Bremer. オオ ミス ジ 119Pamphila leonin, aButl. 556890AVaτn!」eiepntine∬∬・y eαax chF/eean〃mteinosgnei B,r Bua, utBtlu1et,r.L シシミスーータタジチテテハハョ ウ 111222075PNa∬}a誌n’niopp加hhikαt〃ぬα oJ5c ahMrna‘es)enaotannti,t s. BB、s’ur, teBlr1.nen.1. *:Erroneous且y liste dspecies . See texし. R巳s巳orcd froln ZooL Co1L Catal. Lep.(1882). Six synonymic pair.s23ニ24 25=26、46ニ47,59=60,61=62 and lO2=tO3. , Lacked number species were not stored in the Museum or omitted after compilation , 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic LLiibrbarryary Service TThhee LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical SSoooiceityety ooff JJaapapnan M .A. Fentonか ら石1「1千代松へ の手紙 325 然と行われた と判る.交信の際,二者間で種指定に用い た「日本 蝶類目録亅に関しては6項で吟味する. キタテハ 石川 は自分で判定で きない 試料を得た時は帰国した Fentonを キタテハ 頼 りに して い た.石川が種名1司定の ため試料を英国へ 送付し, クジャ クチ ョ ウ Fentonが回答を与える関係にあっ た.手紙5に見られる当時新 キベ リタテハ 発見の ギフチョ ウ同定に関する経緯は5項で取 り上げる. ヒオ ドシチ ョ ウ エ ル タテハ (3)研究者としての石川の成長 ル リタテハ Fentonが帰国 (1880年)した 後,石川 は シ オマ ネ キの 眼 ヒ メア カ タテハ (lshikaw,a1883),ヌマ エ ビの発生 1卒業論文」〔lshikawa,1885),ス アカタテパ ッ ポ ンの 発生 (Mitsukuri and lshikawa,1886)を次々 と外国雑誌 テ ングチ ョ ウ に発表した.こ れらは東京大学で の指導教官 Whitman , C.0. ウラギン ヒョ ウモ ン (1842−1910)が 5一えたテーマ であ り,またWhitmanの後を継い ミ ドリヒ ョ ウモ ン だ箕作佳古〔1858−1909)の 関心分野で もあっ た (上野,1988). メスグロ ヒ ョ ウモ ン ウラギン ス ジヒ ョ ウモ ン 手紙6(1885年)で Fentonは石川に,ス ッ ポ ンの発生を研究して オオウラギンス ジヒ ョ ウモ ン も新しい 結果は期待出来ない と積極的な評価をせず それで も , ヒョ ウモ ンチ ョ ウ カメの発生に関するAgassiz, Parkerらの文献 (1857, r 879 など) ギンボ シ ヒ ョ ウモ ン を紹介した.石川らは発表論文 (1886年)の中で 「Agassiz らの オオウラギ ンヒ ョ ウモ ン 時代を超えた近代手法を胚発生研究 に適用する絶好の材料と ヒコ ョヒウョモウモンモンモドキドキ スしてッ、ポ商ン業を的選管ぶ理」下とにしあ年っ て度分の単進位んのだ精文度献で(1産88卵3,時18期94がな明ど瞭)なを , ウラギ ン シジ ミ 参照 した、論文の共著者で石川の師であっ た箕作は,既に欧米 ム ラサキ シジ .ミ 留学で豊富な研究実績を持ち,比較発生学の 分野に精通してい ア カシ ジ ミ た (磯野,1988).アマ チュ ア動物学者Fentonの域を超えた専門 ウラナ ミアカ シジミ 家・箕作の指導により,石川は先ず動物学分野でFent・n からの ムモ ンア カシジミ 独立を果した. ミ ドリシジミ ミヤマ カラス シジ ミ 石川は大学卒業後,同大・準助教授となり,ドイツに留学 して学 オオミ ドリシジ ミ 問的修練を積み,日本での立場も確立 した、留学を終えて帰国 ベ ニ シジ ミ 後に博士号を取得し,翌 1890年29歳で東京大学・農科大学教授 ウラゴマ ダラ シジ ミ となっ た. ヤマ トシジ ミ ヤアマサマトシシジジミミ 手Fen紙t・7n (訪18問88を年予)定にあしるた.よ20う年に後,石の川19は08初−9め年て,石の川ドはイツ一留年学以中上掛に ゴマ シジミ けて ロシ アか ら欧州・米国を旅行 した.旅行先から病弱の妻に ウラナ ミシジミ 送っ た連凵の手紙が 日記として残る(石川,】936).ドイッで は留 クロ シジ ミ 学時の恩師Weismann, A.(1834−1914)を訪ね再会した.英国に ッバ メシジミ も渡っ たがFcntonに会おうとした形跡はない.円中舘はその 後 ゴ イシシ ジ ミ もFentonに会っ たと思われる.石川宛の手紙が (遺された範囲 でだが)188 年代に限られるの は「独立」と関連する と思える, ダイミ ョ ウセセ リ ァオバ セセリ コ キマ ダラセセ リ 5.ギフチョ ウ発見時とFentonの関与 ホソバ セ セ リ コ チ ャバ ネセセ リ 5−1 ギフチ ョ ウの発見と扱い オギオンチイチャバモネンセジセセセリリ 名和靖は 1883年4月24 □岐阜県祖師野村で 2−3対の 交尾中の ス ジグロ チャバ ネセセ リ ギ フチ ョ ウを捕えた.名和は東京大学理学部準助教授であっ た ヒメキマ ダラセセ リ 石川に指導を仰 ぎ 「該蝶ハ 奇品ナレバ 尚採集晶アラバ 送附ア ミヤマ チ ャバ ネセ セ リ リタシ」の 答えを得た (名和,1889c)この応答は面談に依らず, ミヤマ セセリ 次の 上京に先立つ 書簡交換と見られる. 同年6月25 日名和は東京に入り,7月 15目まで滞在した (名和, 1883,Fig.7).この ヒ京は重要だが 正確な凵程が記録されたこ , 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic LLiibrbarryary Service TThhee LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical SSoooiceityety ooff JJaapapnan 326 中村利夫 Table 3. Specie snumber in Japanese butterfi ycatalogues recordcd by vari。us auth ・rs.(各種の 囗本蝶類目 霊景と集$隶不重数), ’ Familv/ Motschulskv de 1Orza一煙蟶旦凱 _Fenton Butle rElwes− 一堕 _一._亠毘q1_ Miyajima Year 18冖61 Ll866 1869 [874 18761876 ? ]881h l 88量 】8831886 −9 ]8871892 −4 1900 Papilionidae⊃ 72106101408 nフ t4422910−「12 正4. 141. 1111 ー121896102111772l02」l 131117292 PieridaeDanai1d0a1e0 1 806348,] 3170rO7 1717126721212 工 21710 − Satyridae 1 1 24T31 1421 1321 24 互06847 − 1 1442 1 勹 ’ Nymphalida el 3 1∩ 31− ・ つ丿 」 ?」 斗 Lycaenidae l ソ 02 つ哺 31 3 32 弓 32 Hespcriidae l 2 2 つ] づ Total 46 57 75 58 153 127 118 139 130 137 130 147 145 LibytheidaeisincludedinNylnphalidac. Species recc)rdcd exclusively from Ryukyu are nol c unted in the table, とはない ,石川側の簡単な記録もある(石川,1930).東京滞在巾に名和は関係者と会っ たが,その原記録 には当たれず,詳細は不明である.「履歴」(名和,1890)には箕作・石川・練木喜三等の 名とともにPryer の 名があるが,同じ上京時なのか定かで ない. やがて石川は名和が提供した未記録種を当時の知識で τ1副 5属 と判断したと思われる.当時石川が参 照 し得た図譜は不明だが,「奇品」の段階から進んだ判断となっ た.石川は白分の判断を添えた試料を英 国の Fent〔m に送 り,試料の到着は手紙4の発信 日(1883.11.26)以降だっ た と思 われる (Fig.9). 5−2 Fentonの同定結.果 石川か らの 到着試料に対する返事 (手紙5)で ,ギフチ ョ ウに関する主旨は次の通 りである (Fig.4). 前の手紙で貴方がThCti.gと言っ たものは加納4硯加 (L. p‘f詔・i)と私は思う. 「前の 手紙」とあっ て.この 間石川か ら少なくとも2回の発信があっ たと見られる.Fent・n の回答は 1884年当時 の rE確な情報で,Thais puziloiは 1872隼に ErsGhQfがf 記載 し,1878年CrUger新設 の Li{ehdo (fi aHmに移されてい た(この間の事情は渡辺 (1996)に詳しい). Fentonの返事は,名和の採集から1年3 ヶ月後の発信である.当時名和一石川間,石川一Fenton問の授受, 試料照合,文献参照などは各々月単位の 時間を要しただろう.1883年春採集の 試料に対する英国か ら の 回答として thむを得ない 時点だっ た.翌 1884年春にギフ チョ ウは採集されなかっ たから (名和, 1889c),1883年春の試料に対する回答である, 手紙5 にはFento・1が送付された新試料に特別驚い た様子は窺えない .日本滞在中多 くの新種発見に関 わっ たFentonにとっ て,疑問符付きながらElwes (188D が,また前年Pryer(1883)も北海道から,分布を 報じた既知種 に. puziloi)の新分布地発見と言う認識だっ たと思われる. この手紙でFentonは交尾嚢に触れてい る.Elwes (188D は Oberthαr (1880)を引用 して rL.ρ磁 頗 で は] Pα用 α5∫∫配5雌類似の交尾嚢が 「交尾する まで 多分形成 されない 」とした.ObeithUr(]880)の推定は 「若い 雌は [交尾嚢を]欠 く」ことに基づ く.これに対し.・Fentonはキチ ン質構造が羽化後,別に新しく出 来るこ とを信 じがたい と考えてい たようだ.石川にウスバ シロ チ ョ ウで の追試を勧め,当時の Fentonの 交尾嚢に関する疑念を示 した.交尾嚢形成の 時期にはLcech (1889)もギフチ ョ ウの記載時に注囗して い る. 石川 はFentonか ら得た返事を名和に伝えただろうが,自身は翌 1885年12月から3年Ilヶ 月の長期 ド イツ留学に出立 し,FentOI〕の 回答を自ら公に した記録はない , ドイツ留学か ら帰国 した石川は発刊問もない 動物学雑誌に冂本産蝶類の 解説 (石川,1891)を連載 し た.精巧な石版画 [石川 13,4歳の作品とい う(朝比奈,1986)]を添えた本格的な図録で 宮嶋幹之助の , 動た物.こ学の雑解誌説連は載当(宮時嶋こ,の18分99野),で単石行川本が(宮果嶋た,す19重04要)でな役の割図譜を刊示行すにも約ので10あ年る先.行「本す誌る財画政期的ノ許な企サ画・tだtリっシ ガ為」(宮嶋,1899),アゲハ チ ョ ウ科から始め5種を掲載した時点で中絶 し.惜 しくもギフチョ ウ記述に 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic LLiibrbarryary Service