い さ だ く み 読 お て し く さ 小 を ズ イ サ 字 文 は 際 の そ す ま り あ が と こ る ま 止 で 中 途 が 示 表 の 文 本 と る す く き 大 を ズ イ サ 字 。 、 。 ゼロ年代の想像力 宇野常寛 バ ニ ド ル ホ ン イ ラ ― え ま た え 与 に ら れ わ を 恵 知 る す 別 識 を と の も い な き で の と こ る え 変 と の も る き で の と こ る え 変 て し そ え ま た え ー ー ・ ー ― 。 、 、 、 、 。 目 次 第第一一章章 問問題題設設定定 ――九〇年代からゼロ年代へ/「失われた十年」の向こう側 第第二二章章 デデーータタベベーーススのの生生むむ排排除除型型社社会会 ――「動物化」の時代とコミュニケーションの回復可能性 第第三三章章 「「引引ききここももりり//心心理理主主義義」」のの九九〇〇年年代代 ――喪失と絶望の想像力 第第四四章章 「「九九五五年年のの思思想想」」ををめめぐぐっってて ――否定神学的モラルのあとさき 第第五五章章 戦戦わわななけけれればば、、生生きき残残れれなないい ――サヴァイヴ系の系譜 第第六六章章 私私たたちちはは今今、、どどここににいいるるののかか ――「決断主義のゼロ年代」の現実認知 第第七七章章 宮宮藤藤官官九九郎郎ははななぜぜ「「地地名名」」ににここだだわわるるののかか ――(郊外型)中間共同体の再構成 第第八八章章 ふふたたつつのの『『野野ブブタタ。。』』ののああいいだだでで ――木皿泉と動員ゲームからの離脱可能性 第第九九章章 解解体体者者ととししててののよよししななががふふみみ ――二十四年組から遠く離れて 第第十十章章 肥肥大大すするる母母性性ののデディィスストトピピアア ――空転するマチズモと高橋留美子の「重力」 第第十十一一章章 「「成成熟熟」」ををめめぐぐっってて ――新教養主義の可能性と限界 第第十十二二章章 仮仮面面ラライイダダーーににととっってて「「変変身身」」ととはは何何かか ――「正義」と「成熟」の問題系 第第十十三三章章 昭昭和和ノノススタタルルジジアアととレレイイププ・・フファァンンタタジジーー ――物語への態度をめぐって 第第十十四四章章 「「青青春春」」ははどどここにに存存在在すするるかか ――「ブルーハーツ」から「パーランマウム」へ 第第十十五五章章 脱脱「「キキャャララククタターー」」論論 ――ケータイ小説と「物語」の逆襲 第第十十六六章章 時時代代をを祝祝福福//葬葬送送すするるたためめにに ――「決断主義のゼロ年代」を超えて 特別ロング・インタビュー ゼゼロロ年年代代のの想想像像力力、、そそのの後後 力 像 想 の 代 年 ロ ゼ 第第一一章章 問題設定―― 九〇年代からゼロ年代へ/「失われた十年」の向こう側 11..ノノーートトのの中中央央にに、、一一本本のの線線をを引引くく 物語について、もう一度考えてみようと思う。 それは、私たちひとりひとりと世界とのつながりについて考えてみることだからだ。 本書はゼロ年代――つまり二〇〇〇年から二〇〇八年ごろまでの国内文化、とりわけ小説、映画、漫画、テレビドラマ、ア ニメーションなどの「物語」に着目し、その想像力の変遷を追う。 私たちが生きる世界のしくみは、この十年で大きく変化している。ウェブと携帯電話の浸透、小泉純一郎政権による構造改 革が象徴する労働市場の流動化とメガモールが象徴する地方都市の郊外化、そしてそれらを下支えするグローバリズムの進行 と今や世界の「環境」の担い手たらんとするアメリカという存在――陳腐な表現を用いて簡易に述べれば二〇〇一年の「九・ 一一と小泉改革」以降の世界の変化は、私たちの世界観、そして物語を生み出す想像力にも大きく影を落としているのだ。 「物語」について考えることで私たちは世界の変化とそのしくみについて考えることができるし、逆に世界のしくみとその変 化を考えることで、物語たちの魅力を徹底的に引き出すことができる――。あるいは、そこからこの時代をどう生き、死ぬの かを考えるための手がかりを得ることも可能だろう。物語と世界を結ぶ思考の往復運動が私たちに与えるものの大きさは計り 知れないのだ。 しかし残念だが、二〇〇一年以降の世界の変化に対応した文化批評は国内には存在していない。それは現在、批評家と呼ば れるような人々が、この二〇〇一年以降の世界の変化に対応することができずに、もう十年以上同じ枠組みで思考し、時代の 変化を黙殺しているからである。もう十年近く、国内の「批評」は更新されず、放置されていたのだ。 端的に本書の目的を説明しておく。まずは九〇年代の亡霊を祓い、亡霊たちを速やかに退場させること。次にゼロ年代の 「いま」と正しく向き合うこと。そして最後に来るべき一〇年代の想像力のあり方を考えることである。 現在、批評という回路は見捨てられて久しい。それは当然の結果だろう。残念ながら、今のこの国の「批評」とか「評論」 とか口走りがちな人間たちの大半は、時代の変化に大きく遅れて追いかける鈍感な嗅覚の持ち主でしかないのだから。彼らに よって未だに十年前の、それも国内カルチャーのごくごく一部の想像力がさも最先端のものであるかのように紹介されている のが現状である。現実に対して批評が、時間的にも空間的にもまったく追いついていないのだ。 しかし、批評という回路はおそらくはまだ、ある程度は有効である。人がものを考える動物である限り、思考の道具として の批評はその可能性を失わない。それが相手にされないのだとすれば、単に道具とその作り手の性能が低いだけだ。そんな可 能性を探る営みとしてもまた、本書は存在する。それでは、さっそくはじめよう。 かつて村上春樹がそうしたように、私もまずノートの中央に一本の線を引こうと思う。右側には古いものを正しく葬送する ために配列し、左側には今を生きるものを、それと併走しやがて追い抜くために刻み付ける。 右側に葬られるものは、一九九五年から二〇〇一年ごろまで、この国の文化空間で支配的だった「古い想像力」であり、左 側は二〇〇一年ごろから芽吹き始め、今、私たちが生きているこの時代を象徴するものに育った「現代の想像力」である。 誤解しないでほしいが、私は前者を否定し、後者を肯定するために線を引くのではない。時代が後者に移行しているにもか かわらず、ゼロ年代も終わろうとしている現在に至っても怠惰な批評家たちによって「古い想像力」ばかりが批評の対象と なっている現状を、私たちが生きる現実に追いつかせるために線を引くのだ。そして、後者は前者を否定するものではなく、 むしろ前提として取り込むことによって出現した想像力である。九〇年代の「古い想像力」の反省的な発展として、ゼロ年代 の「現代の想像力」が成立している。時代は既にこの「現代の想像力」を検証し、その可能性を検討する段階に突入している のだ。 では、このノートの右側に葬られるべき「古い想像力」から、左側に刻まれる「現代の想像力」への移行が起こった過程 を、簡単に記しておこう。