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明らかになったFentonの生涯 PDF

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TThhee  LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical  SSoooiceityety  ooff  JJaapapnan 蝶と虫找 τt’ans. tepi.d∫‘,(r. Japai i56(3);247−256, Junc 20〔〕5 明らかになっ たFenton の生涯 .・ 松田真平!b 中村和夫三I I543 −0024 た阪市天王寺区舟橋町2−6−201(コ スモ 真田山公園) 」1320 −0037 栃木県宇都宮市清住3−5−17 A newly  described lif estory  of Montague Arthur  Fenton 」 Shinpe iMATsuDA ]’ and  Kazuo NAKAMuRAi t”2−6−201,Funahashi−cho , Tennnoji−ku,Osaka.543−0〔〕24亅apan ]13 −5−17、Kiyosulni, Uしsunomiya −si,Tochigi,320−0037亅apan Abstract Many  newly  found lette rwrsittc ■1 by M . A, Fento11, a pi〔mccr  of Japanese clltomo [ogical research . huve enabled  us to tra¢e his lir,e h賛herto coll1Pletely  unknown . Based on the addresscs and  famili cwshich  appear in the letter, sdocumcnts ¢oncerning  his birlh、 marriage  and  death were obtuined  and  the outlinc  of his lif ehas bccome a【most clear , He was  born in Do冂caster , England in l850, sしayed  i’nJapa nas an Englishしeacherfr 〔〕m 1874 to I 880. Rcturnin gto England. h’e graduated froln St. Johns College, Cambridge and followed a career  as an H. M . Inspec〔}t「ot Technichal CEorlmlyengtersud&c iSnc h1o8G93】s. . InH el  92ma4r0rifed so , HFaernrtiocnt じatndEl ehains owirf eB iwlenmy ほion  CI a8l8i9f oanrdni .a hUaSdA a , dwhaeureght ethr,e iSr ymlarvi−a ried daughte rlived, viaCanada . He closcd  hi sdays inCali仕brnia in 1937. Key words   M . A. FcnIon, A . G. Bロtler、 n〔〕rthcm  Japan expedition , birt ht  deatl,l lifeti、m cH. Pryer, Coenon.vmph ‘’oedippus , Janson col)ection ・ 1,Fenton の手紙の公表とそれに基づ く展開 明治期の 日本で昆虫相解明に大きな貢献をした英国7L Montague Arthur Fentonにつ い ては在 日中の 足跡が紹介され (江崎.1955),蝶 を中心と した貢献が著名であっ た.しかし,こ の ような貢献をした人 ・ 物で ありなが らFenton自身につ い ては年齢を初め,来日前 帰国後の消息などにつ いて の情轍が 乏 しく.これまで極めて 断S「i.的なことしか判っ てい なかっ た (旧中舘,1935), 20〔}3年に栃木県さくら「1iC僻l ・氏家町)の さくら市ミュ ージアム (ミュ ージアム 氏家)でシル ビア シ ジ ミに関する企画展が開かれた.これを契機 としてFentonが 田中舘愛橘 に送っ た多数の 手紙が保 存されてい るこ とが明 らか になっ た.その 内容公開によっ て Fentonに関する情報が極めて 腹富に な り.前報ではそれを蛬にFentonの 人間性や田中舘との関係を報告した (松浦ほか,2005). 特に 1924年に書かれた最後の手紙からは,晩年の Fentonの所在を追跡する重要な手がか りが得られ た.か ねてから松田 は独自に、英国で Fentonの 出牛に関する情報を得てい た (松田.200〔〕).これに今岡 の手紙によ り展開が可能となっ た米国での 調査を加え,従来未知で あっ たFentonの 生涯をほぼ明ら かにする こ とがで きた, 本報で はFentonの出生から来冂,帰国後の動静,死去に到るまでの概要を新たに発掘で きた資料を基 に報告する,これ らFent・n に関する英国 ・米国の 役所か らの 各觴 正明Ptの 入r一は松田が汰 英 自然史 博物館の所蔵資料な どの 入手は中村が行っ た、本報全体の 文貞は両者が負うが、分担執筆者名を各項 末に不 し,文責をより明確に した部分もある. 発表に先シ.ち,次の 方々へ 謝辞 を表 Lたい . 英国の 個人宅へ の 問合わせに際 して は,英文の作成 ・添削や切下の 入手に関し.艮谷純氏と高倉忠博 氏に大変お世話になっ た.大英自然史博物館の Phil]ip R . Ackery氏. Goulvcn Keineg氏,ロ ン ドン E 立 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic  LLiibrbarryary  Service TThhee  LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical  SSoooiceityety  ooff  JJaapapnan 248 松田真平 ・中村和夫 昆虫学会の Beri tPedersen氏には資料照会につ いて 大変お世話になっ た.松浦明氏には原稿全部に目 を通 して い ただき,小竹弘則氏 には写真資料の 入千で もお 吐話になっ た.北九州市立 自然史 ・歴史博 物館の E田恭一郎氏からは,Janson商会の入名や 各人の昆虫専門分野 に関する貴重なご教示を得た. 「ロ ン ドン王立昆虫学会 100年史」閲覧には,大阪市立中央図書館を介して三重大学図書館の蔵書を 検索させ てい ただい た.San Franciscoの柑本幹太氏の協力が, Fentonの妻や娘の 名前を解明するため の決定的な糸凵 とな っ た.これ ら各位に厚く御礼中 ヒげる. 本報告を2004年4 月長逝された目本蝶学界の指導者 ・白水隆先生に捧げたい .江崎悌;先生から白 水先生,盤瀬太郎氏へ と続い た 「欧米人の昆虫研究家につ い ての探求」の滔々 たる歴史の 流れ に対 する憧憬が、これ らの地道な研究を積み重ねて ゆ く原動力となっ て い た. 2.最近の経緯と調査方法 松田 (2000)は2000年3 月頃,英 国Cambridgeshireの電話帳を手がか りに Fenton姓の約 20名に手紙で 問い 合わせ,その 中の 1人Colin Fenton氏 (M . A , Fcnton と親戚関係はない }から,M . A , Fentonの生年 と口本から帰国後の 職業に関する重要な情報を得た.また岡野 (2001)による文部省記録の紹介は公 文書に残る確実な事実の発掘として大きな意味をもっ て い た.更に田中舘愛橘の 日記解読に よ っ て 1875−1877年の 日本国内の 採集旅行に関して 正確な行程が追える ように なっ た (松田.1999b;中村, 2002),特C:, Fentonが 日本で最初に採集 したヒ メ ヒ カゲCoenoti.vmRha ‘oed”i ρp“s annultfer (Butler,1877) につ い て,その type ラベ ル と原記載にある “東京(江戸〉から37〔}マ イル の意味が 「1875 年に関東平 .一 野外周付近の 山々 を 周して採集旅行をした時の,全行程の 合計マ イル数で ある」(松田,1999a)と い う見解が推測可能となっ た. 松浦ら (2005)によっ て紹介された手紙の中には,帰国後の英国での住所,職業.家族などに関する情 報が含まれてい た.1924年にCanadaで 書かれた最後の手紙は,娘の住むCalifomiへa 移る予定を伝え て い た.これらの情報をもとに限定で きた地域につ い て ,英国,米国の 該当都市か らFentonに関する 出生,結婚,死亡,埋葬などの公開資料 を取 り寄せることが可能となっ た.その結果,以下の ような諸 事実を得て 出生から死亡に至る生涯をほぼ把握するこ とが出来た. 3.生年と生い 立ち 2000年に 松田が 得た C.Fenton 氏か らの 情報 に よっ て ,Fentonが 1850年英国 York 州 (現在の South Yorkshire)Doncaster市に生まれたこ とが明らかになっ た.この情報が得られたこ とによっ て,後に 米 国Califomi州a で亡くなっ た人物 (M . A. Fenton)の 年齢が,この出生年か らの年数と 」致する ことが 明確とな り,ほぼ間違い なく同.一人物と推測する根拠となっ た. Fentonは父の外科医Charles Ducker Fenton,母Emily (旧姓 Battye)との 間に生まれ た. x> PI Do ncaster の Registe Orfficかe ら,彼の出生証明書を入手するこ とがで きた、それに よる と出生は 1850年6月29 日,場所はDoncasterの HaH Gate地区,生後約 1ヵ月後の 8月5日に出生の届け出が された.出生証明 書にArthurとい うsecond  name がすで に付されて い るので,誕生時に洗礼を受けた もの と思われる. 出生後来 日までの情報は乏 しく,来日前の教育歴は未だ判っ てい ない .日本の外務省は当時外国人の 採用に1祭して 不適切な人材を避けるべ く厳重な審杢を行ない ,当人の資格などを確認するよう規約 , 「外国人雇入方心得」を再三改定 した (梅溪,1968).特に文部省による 「教師」雇用 に関して は審査 が厳しかっ たから、Fentonが来日前に文科系教員として の資格を取得してい た叮能性は大 きい が そ の 記録は得られて い ない . Fentonと同年生まれの H . Pryer(1871年頃来 日)がロ ン ドン王立昆虫学会 (Royal Ent・mological  Society of London )の会員であっ たこ と(江崎,1955)をヒ ン トに,同会機関誌を探索 したがFentonは会員名簿 に一度も現れない .同 じ結果は同学会司書Pedersen氏にも確認を受けた,「ロ ン ドン1 立昆虫学会 定100で年き史る」.(一Ne方av,e後, 1の93採3)集の品全の員記名載簿なにどもの名処前置はかならい考.え従,っ来て日F時enにtoはnは大同英学自会然会史員博で物館はなの か昆っ虫部た門と断学 芸員(1882年当時3名:広渡,2000)のA.G. Butle, rW . F, Kirby(共にFentonよ り6歳年長)と密接なつ なが りを持っ てい たこ とは確かで,1司館と何らかの連携があっ た と想定される. 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic  LLiibrbarryary  Service TThhee  LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical  SSoooiceityety  ooff  JJaapapnan 249 明らかになっ たFentonの 牛.涯 熾 FC 541619 繍 蹴 £躡 _ − 巳 囮」匸 “ R 唇i5恤重iゆo匚0諞蚊s匚1巾  Donc 5τcr 1陽刪5L 〜I .      BIr重h i“〜【hしSu図 igtr醒io「 Dn r     「                  in t」巳Co1Llm、 oFYorkWos 匸』d阻ピ C、山11研 .I I 自」 凹回1いh穿「」 ド 、1「劃噛」恥ユL岡 胃曜  叩1,4」l割lh●ml3ばl、r幽「丶 騨闇.鬪扁LL. 胃.rr隅.コl1刪コ間,1 m】1虐.Lr滅、.卿6..潮リヒ齢“騙・・牌軸山陶n「‘」o佩祕’1「“.匚P」 I…1.冂11押“ 啣痣尾1・隅1 .,1」・凵「巨り・湖.・喘.応丶 1.晒「剋曲喧L1則印IIL階』隔.」q 、、【、 。 藍 、   、  邯【卩 3〜 T悶CdI1850 mHll、rhl A曲晦urB呂ou Cha卜rl「o〔5}DNuEcmkLeLrFF島mcr1F、E BNATTTDYNEPh 、5圏9旧n {F誠h皿1に1醸「DF,⊆FlrO馳I 匝hAu騨 lI650RlδE呂Pr1sτraro 囲1G阿眠eじ 目a団凵G3【じ Donc trM D LcosLBrFI   !  〆 / C・,!!t’Lud 1・,be」一 叩… …・…一・一 ・一 ・e・・       inma  a・pte  Y・,・t− 一 ’t/t ’ 川「   」 ’ ’ 「ヒ  r噛層  ♪     卜.  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No. FC541619 .(Fenしon の出生届) 4 .来日の っ機た (従岡野来20日01本で)知.ら今れる回Fe明ntoらnかにのな公っ式た記生録は年,1月8日74から(明す治ると7当)時年】22月2歳47目ヵ東月京で外あ国っ語た.学校さのく 発ら令市でミ ー ジア ムの企1 由「展図録に収録された太政類典第二編 第 七十巻には1874 年1月29 日文部 省届の 書として 次 の記述 がある(ミュージアム氏家,200 G處12 ). 「東 京外国語學校へ英語學教師1 [學1 ・ i 名新規御雇ヶ入ノ儀過日伺濟相成則来朝中人 物捜索 英 人 ド ルニ ーフェントンノ両 名 力相当ノ者 二付 一月給料金 白五[. 圓宛ヲ以 テ本月 二 十四 ヨリ向六ヶ月間 雇入條約取結候 此旨御届申候也」 即ち外 国語学校が文部省に伺(前年12 月18 日付)を立て た [ 1 で.当時欠員の った 英語学教 師を捜 して来H中の人物 から Fenton を採用したと読みと れる . 同時採 用 の 英国人ド ニー(スペ ル不詳)は 当初 契約通 り6 ヵ月で 満期退職したが(ユ ネスコ束アジア文化研究センター一,1975 ,Fenton はその後 契約更改を 重ねて 長期間勤務した .この記述か らFenton は英語 教 育を 目的 」に来目したのではな かった が ,日本で英語教師の職を得るこ とが出来 て,長 期滞在に及 んだ 見る ことが でき る .ただし, この見解 によってFenton の「真の 来H 時 期は却って不明確になっ た. 同じく蝶類 の採集家であった H .Prycr は1871 年中国へ来て ,間 なく口本に渡り横浜に住んだ( 江 崎,1935 〕.Fenton より来日は早いが 、外国人としての東京博物館 用 発令(動植物見本採集 人 )は 遅れ て 1876 年7 月 で あった(ユネスコ東アジア文化研究センター、1975).Fen n の来H に関しH , Prycr と の間に接触があった形跡 は,前記学会への所属問題を含めてない. た前述 の如 くFenton は来口時既 に昆 虫(蝶・蛾) の 分類を相当程度修得して いたが,昆虫 の入脈 が訪 日の契機を った形跡は得ら ていない、[中村亅 5 .行 動範囲と背景 当時外国人は居留 地外へ出るのに監督官庁に許可を 得る必要 あった,Fenton が 就業 半年後の1874 年7月に早くも 富士 山へ行く「病気保養ノ為1の届出 て N提I出Iし-いElるeがc〔岡t野ro.n200iDc L.iこbれrが昆ar虫y採 SNer工v工i一ce TThhee  LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical  SSoooiceityety  ooff  JJaapapnan 250 ・ 松田真平 中村和夫 鬱 _ _ _ _ _ _ GE _ _ _ _ _ _                                     、W κ.t、’t//t”’/”t.、”,.b、.,.......ア“.s..1.91..1],t年....   ノ 叢灘難慧灘灘驚 / 鞭 1髪畿 象黷隸 ;・礁 {強雛 .;.I”IこI 輙 櫨 野 陣 〔C:.’[”/,,R’」.T1/ I/F/晦ZJ≡;1 ([”…・ /h”・’・ .l・1t ・/・・.・1R・F岬…・・y’/’・:・「・1.。.・t1・・.lel・・1.l・・.り.. 賦i・嘛1:…1:・・1・se・塵…//・…1。.脚… :・…1.・1I I。Ψ1亅i・・…・..・1・・,・1.M 翻 ・卿 蚰1…1.幅 ・,、、d・1、。、}1・. 1。Dd i,lrl.S・、11P.・. ・出Rb曝。・蜘2…即 昇... M  ・  ・  7  43  S  ア  9     !:旨;讌‘1川 T I徽州 ..「 Fd1E庶, tL・ . −黼ltセ ≡幌w.へI照’正CしMlI.・tN; …1/‘:i/ヨ鵜/三「.M.、ll:(識こ.膿F:H繍.rl職l..:;・{l・.;:’・.r」l縮諦匚ll.P.=.,. 由..lI滯s・:・麟.八層’l〔1、}:..;.11:,.・ll L,…[I.i/鵬’ii、尸l・].,1.i,’.1・3,覊川暗.:丶〔1..驪T・酬:‘月.. ・…r・lDI:l...隙トへ:l:・l・r一巳.厂1.、.….….騰2一:繍・一轗嚠:〔、{蝋l・:,:,:h:・                                     !       AH Fig2 . Marriag eCertific aoft eM . A, Fenton (London , UK ).Requeste dand  obtained  by Shinpei     MaLsuda, No, PAS  1021732.(Fcntonの結婚届). i..:1.:wrll,11こD 〔「OPy {.,正.1 L.、N 匪.1丶广1.1{、.Ω1引.1‘1}t.1.}.「 羅 1 ..1i.I尸り .. ’.1F.己:..、」r. /t「、.、.・.「「 .己、...川1.F 己尾’..」1..:’.{.P:A鹽S.1丶1二 1R1A021【,7[{卜」..G2I.冠.】.「.:R {,FFr{1・1 ‘ヒ...:.「.三こ℃L.:1〔二.丶」.}「s.1.{…〔..1 呂   1893 1 1、ljlヒj.s「.「Ii 、.,卜、、、.I @、I.[、、1、1i、..,. .SCH[・ ・b[ヒAd嘸w・h・L 助i、///、..C°n・εy。fCambti :....1!..1.1 . . 」 .r e1. v、トき’1 、−.11….・匸.....1. ・i..1.己’・..1  .  , 丶=..1...’.. . . .;・ ...          写」 . . 、   丶  こ1“;.r   ;暄. 1’璽  1己 .. r.  .■ .. 己 .     U :  1F  ./1; 噛;= . . L 、 ....・1.k.i.旧11...、噛.Iぴ…1幽・.…Iヒ.、 il1匚匚.1 =  /  、軋.!e こ」 l.・i℃「」;1.. ......’ヒI...I.. ..二.i.1....i1i匚11.l.1」己:鞠.II.■1 1       L ;、.ttIEiLL 「 ォ11 免. 11 繼釐..川1ヒ...】[..;.旨.・;.1」・・..・1....・.・t・・/l…ll・.・l.・匸il・1i・・.購.・1.・..・・1、2。,、,、;「;.卜.r,. 。,//1 、蓬蟹、.鑾;/c・」W..・」Li−tlh・・Lli=ll∈l.NE }「/・11ri l11・E/・珊苅t;「11・1・・∵匸.1i・・.・.1・Lh&・・L三III.・・・:R・.51F・1 …』・珈dLrl。DMi111tl。、.1、.. 9出  .、L: 、レ、  Eρt・mbe ・ 2 :L 川I.」」 i.’亅.I.、〔覧....1.冤1L....L....1  1.1.1.軋「」;、. ;  ≒.1. 1. 匚、1.」N鼠1」1  1. .  鬮:」{ ヨ1.ロ .X 、 ’、..匸..〕 、{.盖. Cト/.【}1’二親 FレL、.【.1ρb〜窪iΣ「…:臼 e  .iN.と .既...1」  ....瓦.℃堊..1 「1.1:匚.t51曼.t  .l. 1脳「 匸1」、ヌ  L..1.F. ;.こ.「.瓦1  11 . 1.51‘匸L.. .圏...「丶.‘〔i1.1  t.1...K: 、 .. .1...〕、..L:/Dら..i.三占...1こ1に二Nこ二 .へ  t 巨1亀.r 4B XCA,,..:t  t 1   .ト、.HL匸 11 i iRlNG ER 11 1 1ES、..P.1 ・ 1FトSltl 5523G9 〕1. 1 目,1.:S「 1.rl、.. に1.HFig .3. Birth Certificatc of Sylvia  E. Fenton . Requested  and obtained h @Shjnpei MaLsuda , No.     PASIO2173 NDI〔IFc-ntEolnecのt娘roSylnviiac Liのb出r生届ar〕y. SNer工v工i一ce TThhee  LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical  SSoooiceityety  ooff  JJaapapnan 251 明らかになっ たFentonの生涯 403  L−ZEOF COTH   zaT  は    ;     .・づ麟轄総 亀一 鯵鱒 一 一 瓣 濫慧一 一 :==ニ ー   甑「s、鯛.欄゜磁・脚 脚 帆囗、lv°”Ct−澱… fe,署輔r啣 耀霞D°鳳圃響‘F‘ 慕一慧…一咢≡一一・・四。.1,摺畠溜 1:1儲 :器磊1’・lll 畿 1 韈 鑿 攤 鱧 羅 灘 罵 i . 驤 籌 疆饕讐二 71 騰鑿蒹::爾 … ぞ鱗叢罷 二 :讐 ≒ :=畢  iド1l・ li ・・、ii毳o「 胤8・讌“…嗣略馬己L璽壷じ魍処PE凵題n.T/ O蠶H  しpCRr融.s[ 叩−  晶e.  ro CST”セ:m・t警脚±品儲q’し一 ._『 2C  轟   2 一 6 鷲論胤1「謙,、0’鴇1「鏨嬬r【r三里0gとしP,,’i旧嵩_一旧「r,髪「一卩 躊国.鼬 隔、r四窮I.齪鬥Iσ i、.貞「.   「’【 .,  難.                  擁   「. 1「_一   ‘ .弩  . .  一 一..− ・幽.一一岡 o {l・l  I …    昌。、  ,鄲二  讐_      一 ・ .冫一、 λ.叫} λ姻羸」.o唖必皿..勲:卜L蜜,r」F■r .  ,舶C.OUP26     欝 慧難聽 茎懸蠡 Fig.4, Death Certific ac}tf cM 、 A . Fenton〔Calif〔〕rnia State}(Camhridge , UK ), Rcquesしed and  ob −    tained by Shinpei Matsuda, No,2003目3250−AO.(Fentonの 死亡届), 集の ための 1名目」であるこ とは確かで.Fenton来日の 真意が既に現れて い ると見るべ きだろ う. Fentonが 凵本で蝶採集に訪れた場所は,松田 C1999h)の地図から分かるように.北海遺 青森,秋田、宮 城,山形,福島,新潟,茨城,栃木,山梨,埼モ、東京、神奈Ml,千葉.静岡,群馬、長野の 18都道府県で あり, H.Pryerが離島を含めた主 に関朿以 西の 18都道府県を訪れた 〔汀:崎悌三著作集2,104参照)の とは対 照的である. 大英自然史博物館のJansu nCollecdon にFcnton文書が遺されてい る こ とが Keineg氏 を通 じて 明らか に なっ た,この Collectioはn亅anson 商会の 末裔、 D , B, Janson氏が 1991 年に同館へ 寄贈した同家の注文 記録や販売に 関する手紙等の [于「文書類で ある.「Janson商会」は 1852年に Edward Wesley 亅ans 。n (1822−1891)に よっ て創業され.代々標本の売買,研究誌の 発刊.文献販売等を営んで い た 〔江崎. 956. ] ) それ は 1913年 カナ ダか らJang。n 商会に宛てたFentonの 1通の手紙で,これ は創業者の息子Otiver Erichson Janson もしくは.孫Olive rJordan亅anson へ 宛て た もの と推定されるが、以下 に全文を掲げる. Post O什lce!Royal Oak/Victoria. B. C. 25th Aug .、1913 DcarMr.Junson.     一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic  LLiibrbarryary  Service TThhee  LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical  SSoooiceityety  ooff  JJaapapnan 252 ・ 松田真平 中村和夫 、 ’ 二 易 蠡 Fig.5, Today’sChrist  Church in London , Lancaster gate. where  Fenton’s marriagc  ceremony  was    organizcd  in June 1889. Photo by Katsuy aishihara.(Fentonが 】889年6月結婚式を挙げ    たロ ン ドンの クラ イス トチ ャ ーチの 現況 「2005 年亅.撮影 石原勝哉氏〉. lhave beeI Ia long time gending  any specjnlens , but my  time has been much  occupied  o山crwise 、 Imust make  a systematic  search  for Colcopter wahen  I have more  time. Hoping these few will be of interes tt{〕you and  your clients and  leavin igt te you to arrang¢ the price. Iam  Yours sincerely M .A. Fenton 1カ ナダで 甲虫は時間が な くて採れない .送っ た もの の価格は任せ る」とい う主旨で,この手紙か ら は少な くとも晩年(当時63才)の Fentonが, Janson商会 と標本提供者としての 接触を保ち,時間が許 一 せば時々小遣い 稼ぎに もなる 「採集」に応ずる 面を持っ てい たと推察される.従来,英語学教師 と ・ い う本業を勤めなが ら 「昆虫相解明 収集」に熱心な人物と知られてい たFentonだが,大英自然史 一 博物館の 「昆 虫採集依頼」を受けて い た可能性も考え られ,来 囗の 動機を考える上に つ の ヒン ト となる事実である,今回,大英自然史博物館に残されたFenton とButler間の 交信記録を新たに見出す 努力を したが,発見 ・入手することが出来なかっ た. 6.日本での交友関係 日本滞在中に交流があっ た,又は田中舘の 凵記 ・千紙に登場する人名は次の 通り. Thomas  Prat tPoate((1848−.1924〕英国人. Fenton と同時期 〔3 ヵ月遅れ)に同 じ英語学教諭 とな り,同 じ   住所に住み再r 旅彳亅に同行 した (上野,1968;ユ ネス コ 東ア ジア 文化研究セ ン ター,1975).また.   退職後宣教師として東北 日本での布教に努めた (Stebbins,1992). Guido Herrnan F. Verbcck (1830−1898)オラ ン ダ人宣教師.1859年長崎に来日し,1869年上京して開成   学校の 設立 を助けた.同校教頭で Fenton. Poateの ヒ司であっ た. Henry Pryer(1850_1888}初め Fenton と交流があっ たが, Fentonが採集家で Butler流の 「新種濫造学者」   と提携して い るこ とを不満と して疎遠になっ たとい う(江崎、1956). Frederick Wilium Strange(生没年不詳)英語学校の同僚.田中舘の 旅行 日記 (中村,2002)に出て くる   1875年目光鉢石で出会うStr.はこの 人物である.次の人物 とともに 「お雇い 」英国人で ある(ユ 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic  LLiibrbarryary  Service TThhee  LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical  SSoooiceityety  ooff  JJaapapnan 明らかになっ たFe冂tonの牛涯 253   彳・ス コ 東ア ジア文化研究セ ン ター、1975). Thomas M . Rhymer 一亅ohnes (生没年不詳)建築師.同じくMt1・t舘 日記 に 1876年 冂光中禅寺で 出会 う   Rhymer  Jhonesはこの 人物である. 田中舘宛の手紙 (松浦ら,20()5)には,旧知の文部省関係者として Kato, Hattor, iHamao の名を挙げてい ’ る 〔千紙16.]9〕.これらは次の 人物と推察で き,当時の 要人で あり ([ 亅内が Fenton在日 11時の 役職), 後に各機関の 中枢人物となっ た. 加藤弘之tt(t1t836−1916 )[東京大学三学部 (法 ・理 ・文)綜理L帝国学士院院長.枢密顧問官.  濱尾   あ新 (1849−1924)[東亰ノく学 .:三学部綜理代理 ・綜理補】,帝大 ・東京帝大総長,宮中侍従. 服部 一貿185凵 929)1東京英語学校校長」.東大法学部長,地震学会会長.兵庫県などの知事. 学者,生徒 として Mendenhalt (手紙 12.15). Morse (22)、 Mitsukuri(16L Ishikawa〔10,12,16,19,21,22〕, Fujitani〔10、12. 22,, Suimatsu(16)の 名が登場する. Edward Sylvcstcr Morsc (183S−1925) 1877 年腕足類研究の ため来日 した米国人動物学 者.請わ れて東   亰大学動物学の 初代教授 となる.大森貝塚の 発見者.1878年の北海道旅行では横浜か らFenton   と同 じ船に乗り,帰国後も交信があっ た (r一紙22).石川千代松の師. Thomas Cerwin Mendenhall (1841−1924)Morsc の推挙によっ て来円 (1878年)した米国物理学者で,田   中舘愛橘の 師となっ た. 箕作佳吉 (1859−]909)Morse. Whitmanの 後を継い で 1881年か ら目本人初の東大動物学教授.祖父阮   甫以来の学者の家系の 1人. 石川 T.代松 (1861−1935) 英語学校生徒で Fcntonに蝶bf究t の 手ほ どきを受け,東北 ・北海道の 採集旅   行,ドんに,よt同’コ行した.MQrse の進化論紹介者.東大教授,  末 松謙t澄 (1855−1920)1878年に英1.Li留学, Cambridge 在’学:中 [源氏物語」 を英訳 した.福岡県出身で   伊藤博文の 女婿,逓信 ・内務大臣.帝国学 L院会員. 富士谷孝雄 (生没年不詳)Morse の 教え了一(Morse.1879).地質関係者で,1883年 「地質要略」を著わ    し,地質年代の 冂本名(古生代や白亜紀など〕を!アえた.[中村亅 7.帰国後の消息の入手 Fentonは 1880年4 月に6年3 ヵ 月の 凵本滞在を終え,英国に戻っ た.年齢は3(,歳,独身で あっ て まず は最初に,親の 住むDoncaster へ まっ すぐ向かっ たと思われる.この 後に,ヨーロ ッ パ を訪ねた田中舘 や石J「[と旧交を温めたこ とはこれ まで も知られ てい たが C.Fenton氏か らの 情報並びに今回の 手紙 によっ て,その 後の職業などがかなり明らかとなっ た. 『 Cambridge の SI. John s Coilege に入学 した (1881年;3且歳)の はH本か ら帰国後間もな くの ことにな る.1884年 (34歳)で卒1業し学 lrとなっ た.大学の比較解剖学の実験助手を務め,後に教育院 (後の文 部省)の下級視学官 (Lancashire Borough Distric)t,後に正視学官を勤め た. 今回の 書箇で英国での い くつ かの 住所が明らかになり,Cambridge とLondon の 4 ヵ所の ア ドレスを 知るこ とがで きた.短い 年数にしばしば引越しており.独 り住い の借家だっ た模様である (おそらく この 2つ の 都市を往復 しなが ら,仕事で英国各地へ の 出張を繰り返してい たと推定される), 前報 (松浦ら.2005)で紹介した22通の 千紙からは、「(1891年3月時点に)Cambridgeの街の外f則に家 てを持転つ居こし,とかをな計り画広llいt.気住宅に入(Caっmたbrもidのgeを近見郊つ.〜)けをる得事Rが手難紙し2い1」)、(「手My紙 w2if0e),_「」18の91記年述9か月ら英1国89内2年にお頃いま で に結婚して い たこ と (手紙21), Canada からの手紙の 「Californiにa住んでい る結婚してい る私の娘」 の 記述 (手紙22[から,「娘」がい た こ となどを知ることが出来た. これ らを手がか りにFentonの 結婚証明書と娘の 出生証明を,England の 役所から入手しようと した. 入手には,妻と娘の止確な名前を知るこ とが必要で あっ たが、Fentonの手紙からの情報だけで は判ら なかっ た、丿1人名は 10項で述べ るFentonの 「死亡証明書」(Fig.4)に Harrietとだけ記されて い たが、 fさulれ lnaてmeお もり,国そ籍こもに記残さされれてていいなるかかっもた知.れしなかいし記,O録aがkl唯andで・のFen「t道on1がを火開葬くさ可れ能た性公で共あ施っ設たの.名前が記 その ような経緯の なかで.松田の知人である本会会員 ・長谷純氏 を介し,San Francisco在住の 柑本幹 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic  LLiibrbarryary  Service TThhee  LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical  SSoooiceityety  ooff  JJaapapnan 254 ・ 松田貞平 中伺和 丸 ー 太氏の協力を得.オ ク ラ ン ド市立図書館 (Oakland Public Library)History Roem 学芸員の Kathleen Lcles DiGiovanni氏およ.びS, Lavoie氏の援助に よっ て,同市の 葬儀社Chapel of the Chimes から正確な 情報を引き出すことがμ∫能とな っ た.それによっ て Fcntonの 妻の second  name や没年.娘の名前など が一最初に判明し,そ こか らイギ リスの役所 (General Registcr Ornce)にある戸籍関係書類の 入千申請が 気に可能となっ た.[松刑 8.結婚,娘の誕生 Englandの役所発行の証明書:(Figs 1−3)から得られた情報などをもとに描くことが出来た Fentonの 後 半生は以下の ようである. Fentonの結婚式は 1889年の 6 月25 日 〔火曜冂), London の Hyde Park北側 に沿うPaddington教区にあ るChrist Church (英国国教の教会/Paddington,Christ Church,Lancaster Gate:Web サ イ ト資料http:〃homc− pPaogretss.gmoo”lud.ta付hc.u近k /gにen住ukんi/MでDXIいPaたdd2i2ng歳teのn 英)で国行人わ女れ性たで.,新生婦まはれHaもrrEinegtlt eaEnldcでan〔あ〕r っBiたnny(,こ当れ時はEn“gbloarnn dのin England とい う,Oak 】and 市Chape lof 1he Chimcsの情報に よる).新郎Fcntonの実年齢 〔38歳)とは約 故16人年のとな年齢っ 差て がい あた.り結,両婚者式共まにで 初「婚入は[B一ac緒heに1・rは(夫暮)ら/Spさiずnst,e異r(妻な)る(F住ig所.2に)]住でんあでっ いた.た新.婦証明の父書はに記すでさにれ て い る結婚前の Fentonの住所はこの教会の北隣 London. Craven Hill Garden 17番地であっ た“.なお”, この教会の付:置は2003 年発行の 1万分の 1地図 (エ ア リアマ ッ プ llロ ン ドン.昭文社)にも Church として示されてい るが,今年当地を実際に見聞された方の情報では、教会の 塔の 部分の形を残 して建 物は全て改造され,現在は写貞の 通 りマ ンシ ョ ン になっ てい る との こ とで ある 〔Fig.5). 結婚して 4年経っ た 1893年頃,Fenton夫妻はCambridgc 駅に近い 22, Bateman Strcctに居住 してい て. そ こ で 6月 10口女児が誕生 L,Sylvia Ermyntrude と名づ けた.こ の 女児の 出生証明書に は second namel  Ermyntrude が付 されて い るので ,誕生時に洗礼を受けたと思われる.この住所はCambridgeの 中心街か ら2km くらい 離れ た地点であ り.付近 は艮閑で農場が多く,街の 中心と比べ る と安価で 比 較的広い 住空間が確保しやすい 場所と推定され る.r一紙 21の 「1891年9∫]英国内におい て転居 し, かなり広い 住宅を構えた」とい うの は、この 家の ことを指 してい るかもしれない . ア .・t, ゼじ   な  お.  娘  の  名  前  の  Sy  lv  iaの  語  意   は     「森  」  (英  語  の  wo  od   .  ラ  テ  ン  語  の   sil  va)  ,洗  礼  名 E rm y nトtロruゴdeは,古代 ド イツ語の Ermcntrudc ←lrmtraud)が語源で,「全てにおい て最愛の」〔whole −beloved)とい う意味で あ るとい う(Web サイト参考資料http:11wwwsd,biglob,ene.jp/−ros/aya .htm).[松田] 9.標本の移譲と新大陸へ の移住 1で91判8明年にしてはいロるン.ドン・方の,P5u項rcにel示l Maしnたsi手on紙. Qかucら。ns1 9C1l3u年b GにarCadneandsaにに住いんたでこいとたもこ判とるがのC.で F,cnこt〔mの氏間の両報国せ間 を往来して い た と思われる.第一次世界大戦による経済不況の 影響を受け,Canadaの Victoriaにある 資産を処分するため 1924年ごろCanadaへ 行き,その 後娘夫婦の 居るCalHbrniaへ 移住 した, 大英自然史博物館の Ackery氏 (Collcctio nMsanager )に以下の 教示を受けた.同館が Fenton Co]lectjon を購入 したの は 1923年7 月で, Register entry  LBM 1923−6131 に記録がある (2005, L 8.中村宛私信). Rhopulocera[fro’m」Japan. Purchased from M , A. FenIon Esq. July I 923. Col1,by M . A. Fcnton 〔including a number  of Butlerstypes ). Fentonが英国を離れア メリカ大陸へ 移住する直前に同「専物館が購入 したこ とになる.なお,Register cntry [BM  1923−xxx ]は,1923年度に入手 した資料 につ い ての登録順を示す番号で, Fenton資料 ・式は 613 番目に登録された こ とが分かる. Ca]if〕crnia には1924年頃に入国し,Fenton夫婦は娘夫婦とともに晩年を過ご した.米国入国後の 住所 一 につ い て は情報が 少ない が,唯 1935年にOakland市4017 San Leandro Streetに居住 して い た記録 (Oakland city directori〕eがsオークラン ド市立図書館σ)DiGiovanni氏から得られた (松田宛私信).この ア ドレスが娘夫婦の住所で ある事が後に判っ た (10項). 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic  LLiibrbarryary  Service TThhee  LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical  SSoooiceityety  ooff  JJaapapnan 明らかになっ た Fentonの牛.涯 255 10.没年 ’ Canad2VVictoria Ti∫役所と.USA !Califomi州a 庁の Health Serviceへ 問い 合わせた粘果、 Ca]ilornia で 1937 年3月 21日に没したMontague A, Fentonの 死亡証明書 (囗本の い わば 「住民票 1にあたる もので.情 報開示の原則に従い ,世界中の 誰もが明確な目的に応じて人手で きる権利が確立されて い る)が 入手 一 出来た.先述の ように.既に判明してい た生年から算出できる年齢が 致するこ と.米国へ の 入国年. 職種の記載に も不合理な点は兄当た らない の でこ れが 同人の もの と判断 して 間違い ない と考えた. こ の 判断は別途入手で きた上 記結婚証明書,娘の 出生証明書との照合により実証で きた. 死亡した場所はOakland市1033−40th Avem ■e (1937年当時の 住所)である,死因は慢性心筋炎と気管支 炎の併発で.Oukland 火葬場で死亡の 翌 冂火葬され た,死亡H寺に は 86才8 ヵ 月だっ た こ とになる.柑本 氏の調査で はこの 火葬場は現存せず、 Chape 1of the Chimes がその業務を引き継い でい る. この証明書には死亡申告をしたR.H, Watt とい う人の 名と住所が書かれて い た.その住听が前述 の Fenton最晩年の住所と1司一であっ たの で,こ こが娘夫婦の 住所である可能性が 高まっ た.柑本氏が再 三にわたっ て オークラ ン ド市立図書館に質問 し、Wa 【t氏の 妻の 名前 d口姓)が Sylvi aFent  n であるこ とを突き止める こ とがで きた4松田1 11.今後の課題 没後68年を経て,Fentonの生涯の 輪郭が描けるようになっ た,それによっ て来囗前の 専門,剰 「の 契 機.昆虫の 学習歴.大英自然史博物館との 関係など今後明らか にすべ き課題が明瞭になっ て きた,米 国に在住すると思われる了孫 との 接触はまだ図れない が,今後そこか ら新た な情報が得られるこ と を期待したい .朿京大学には 「お雇い 外国人」などに関する貴重な原資料が所蔵されてお り(金井. 1997;中野,1997),更なる調査 を必要として い る, 最後に信仰の 問題で あるが,Fento冂が英国国教 (Anglican)の信者で あっ たこ とは結婚証明書から明 らか となっ た.教え子の 田中舘愛橘へ も 「キ リス ト信者になら ない か」 と時々誘い か けてい た こ と . が田中舘自身の回想文の中で しば しば述べ られてい る 米国で は英国国教の 教会をChrist Episcopa1 Church と呼ぶ,Fenlon夫妻が晩年を過ごした Oakland の 隣町の Alamcda 島 (この 島は現在埋め 、Zてにより.細い 水路状の海でわずかに本十 と隔て られてい る だけの状態であ り,多くの橋 もかけられ てい るため,本土 と陸続きと考えて差 し攴えない )には,19 世紀か らの 歴史があるChrist Episcopal Church があ り,Fentonの 最晩年の住所4017 San Leandro Street からは4km ほど しか離れ てい ない .柑本氏はChapel ef the Chimesか ら 1彼らの遺骸はどちらも火葬 後A 且ameda へ 送られ た」 とい う情報を得てい る.Fenton夫妻は英国人として同地に長く暮らしたの で,Alamedと1島の 教会墓地に葬 られて い る可能性が高い と思われる. 参考文献 江崎悌二,1935.プラ イヤー氏 「日本蝶類図譜」解説:1−15.植物 文献刊行会.     .1955.凵本昆虫学史話 (2),昆虫23:182−189.  広 渡俊 哉.,[2905060..冂大本英昆自虫然学史史博話物(館3),,昆馬虫場2金4:太13郎9−1・斗平5.嶋義宏(編),新版・昆虫採集学:656−662.九州大   学出版会. 金井 圓.1997.著作 ・記録に見る 「お雇い 外国人」の 足跡.学問の アル ケオロ ジー:417−430.東大   出版会  松   田  真 会 平 46、. 1大9199 会99b9講 a,.演 改フ要 di.−ェ旨 ・ン集英 :ト国 7ン.人 がに ヒよ メる ヒ日 カ本 ゲの を蝶 採の 集研 し究た 史 .「蝶江 研戸 かフ らィ ー3 7ル0 マド イ14 ル( 」12) の:4 意−1味 4.. 日本鱗翅学     ,2000.フ ェ ン トンの 生没年に関する新知見と松戸市の ヒ ョ ウモ ンモ ドキにつ い て.口本鱗  松 浦翅明学・松会出47真大’ド会講・小演竹要弘旨則集:・A中2〔村}L.和夫、2005.M . A . Fcnlonが田中舘愛橘に宛て た手紙 蝶と蛾S6:     145−164. . ’ ’ Morsc, E, S.1879.近 藤義郎 ・佐原真 (編訳 ),1983.∫hetl MOttnds Oj(Om θ”i.  Metit(漉∫ Ctf ScienctJ 一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic  LLiibrbarryary  Service TThhee  LLeepipdiopdteorpoltoegiroaollogical  SSoooiceityety  ooff  JJaapapnan 256 松田真平 ・中村和夫     Departmertt, Universit yqf Tokio Japan.1(D.大森貝塚.岩波文庫. N中中ea村野vc和 , 夫実S. ,,A21.09091927..33大フ. 学Tーrh.e史ン Hとiトs大tンoの学r.y 栃資of ’木料the県. E学n旅to問行molのとogアi蝶caル採l ケ集 Sオ.ocイロieンジ.vt セーofLon:クd50ト1−5θ5n3:],111.84東−323.大4−.1出93版3. 会xl.vi,224 pp. Sufiblk. 岡野喜久麿,2001.フェ ン トンの こ と,や どりが (190):14−15. Stebhins, R. P.,1992, The Japan Experience.243 pp. Peter Lang Publ. Inc. 田中舘愛橘,1935.石川千代松君の思い 出.科学5(4):166−167. ..L野益.r ,1968.お雇い外国人3.自然科学.258 pp.鹿島研究所出版会. 梅溪 昇,1968.お雇い外国人 1,概説.223pp.鹿島研究所出版会. ユ ネスコ 東アジア文化研究セン.ター,1975.資料御雇外国人,493pp .小学館 S皿mmary LBased  on newly  available  infbrmation什om  the letter swritten  by M . A. Fenton, pionee rentomologist  in Japan in the Meiji era, we  can  trace his backglound in England, Japan and  the United States.  Social certii ・ cates  obtained  from the approprjate o捕ceg in England and the US reveal  much  of his lif ewhich  was  almost . unknown  until nOW 2.M . A. Fcnton was  born in Doncaster, Cambridge in l 850, the son of Char且es Ducker Fenton, a physicia,n and Emily Batty.c 3.He visited  Japan in 18740r so. and  was  adopted  as an Englis hteacher at Tokyo Kaisei Gakko. fbrerunner of Universi tofy Tokyo ,丘om  Januar y1874 and  taugh[many  elit巳students  of that timc. 4.A lette dreposite idn the Britis hNatural History Museum  was  in the Janson Co】】ections . A possibili teyx− ist sthat Fenton, at leas tin his且ater years, was  one  of the inscc dteale rfor the Britis hMuseum , Fenton had contacts  with  H , Pryer(Entomologist), and  E. S. Morse (Zooologist)during his lif ein Japan. ’ 5.One of Fentons students , Aikitsu Tanakadate, later正irs tJapancse physics professor of the Universit’y, maintained  an intimate re旦ati nship  with  Fenton throughout  his li驚 and  happily preserve mdany  of Fenton s letter.s 6,During his stay  in Japan 〔1874−1880), Fenton made  expeditions  to coIlect insec tisn Japan every  year ac− companied  by his students .  Areas visited  by him jncluded all prefecture sof castern  and  northem  Japan in− cluding  Hokkaido, and  a collec 巳ing trip in the summer 【)f l 875 covered  about  370 miles  in totaL The type localit yspecitied  as “370 miles  fヤom  Tokei (=Tokyo)”in the original deschptions of some  butterfli emsay refer  to the total】ength  of thisjourney . ’ 7,In April,1880 Fenton lef tJapal land  g,〔,on attended  St John s College, Cambridge in England.  Having graduate dfrom Ihe College in  l 884, and  been f{)r a while  demonstrator of Comparative Anaωmy  at Cambridge U皿iversit, yhe worked  as H. M . Inspector of Technica Clo】leges&School.s 8. He married  Hurriett eEleanor Binny in June,】889 and  they had a daughte, rSylvia Ermyntrude, in June, 1893.At tha ttime, he and hisfamily live dat Bateman Stree, tCambridge, He was a pious Anglica.n 9.His las tpreservcd lette, rse11uo Tanakadate in 1924, was poste din Vjctoria, Canada. The lett enroted  tha1 he would  move  t(, Cal面mia  within  months , where  his married  daughte rlive.d The or丑cial documents avail− able  at the Cit yOMce Q「CalifQrn,i sahow  that M , A. Fenton died at Oakland City in March 1937, at the age of 86 year sand 8 months . (Accepted  Pt(a丁ch 2],2005) PubEishe dby the Lepid ptero】ogical Societ yof Japan, 5−20,Metoyokoyama 2 Hachi ji,Tokyo ,192−0063 Japan   ,  〔’     一 NNI工I工-EElleoetcrotniroonic  LLiibrbarryary  Service

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